大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

横浜地方裁判所横須賀支部 昭和52年(ワ)109号 判決 1985年8月26日

原告

別紙原告目録(一)(昭和五一年(ワ)第二四六号事件原告)

(二)(昭和五二年(ワ)第一〇九号事件原告)記載のとおり

右原告ら訴訟代理人

竜嵜喜助

大倉忠夫

小林章一

根岸義道

宮代洋一

右五名訴訟復代理人

乾俊彦

右竜嵜喜助訴訟復代理人

武下人志

被告

右代表者法務大臣

嶋崎均

被告

神奈川県

右代表者知事

長洲一二

右両名指定代理人

山崎まさよ

外一〇名

右国指定代理人

秦康夫

外三名

被告

横須賀市

右代表者市長

横山和夫

右訴訟代理人

中山明司

永峰重夫

南俊司

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは別紙原告目録(一)、(二)記載の原告らに対し、各自、別紙原告目録(一)記載の原告らのうち1ないし3、5、12、13、21、22、32、33、35、37ないし39、43、44、46ないし49、57、58、62、63、66ないし69、71ないし74の原告らについては各金一一五万円、別紙原告目録(一)記載の原告らのうちその余の原告らについては各金一七二万五〇〇〇円、別紙原告目録(二)記載の原告らのうち1、3、5、6、9、10、13、15、18ないし21、24ないし28、32の原告らについては各金一一五万円、別紙原告目録(二)記載の原告らのうちその余の原告らについては各金一七二万五〇〇〇円及び金一一五万円の支払いを求める原告らについてはうち各金一〇〇万円、金一七二万五〇〇〇円の支払いを求める原告らについては各金一五〇万円に対する昭和四九年七月八日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  第一項について仮執行宣言

二請求の趣旨に対する答弁

1  (被告ら全員)

主文同旨

2  (被告国及び同神奈川県)

担保を条件とする仮執行免脱宣言

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当 事 者

(一) 原告ら

別紙原告目録(一)、(二)記載の原告ら(ただし、別紙原告目録(一)2、10、14、18、24、37、55並びに別紙原告目録(二)30の原告ら(以下、「承継人ら」という。)については、別紙承継人一覧表の被承継人欄記載の被承継人ら(以下、「被承継人ら」という。)、以下、単に「別紙原告目録(一)、(二)記載の原告ら」というときは、承継人らについては被承継人らをいう。)は、昭和四九年七月八日当時神奈川県横須賀市舟倉町(別紙原告目録(一)及び別紙原告目録(二)1ないし25の原告ら)及び同市久比里一丁目(別紙原告目録(二)26ないし33の原告ら)に居住していた者であるが、後記のとおり同日午前零時ころから降り始めた降雨により、別紙図面(一)表示吉井川及び甲・乙・丙水路並びに平作川のA点とB点との間(以下、「A・B間」という。)からの溢水により(別紙原告目録(一)及び別紙原告目録(二)1ないし25の原告ら)又は別紙図面(一)表示吉井川及び平作川のC・D・Eの各地点(以下、「C・D・E点」という。)付近からの溢水により(別紙原告目録(二)26ないし33の原告ら)それぞれ別紙被害一覧表(一)、(二)記載のとおり居住家屋について床上浸水の被害(以下、「本件水害」という。)を受けた者である。

なお、承継人らは、被承継人らの地位を別紙承継人一覧表相続(承継)年月日欄記載の日時に相続により承継した。

(二) 被告ら

(1) 被告国は、河川法により二級河川の指定を受けている平作川の管理者である。

(2) 被告神奈川県は、神奈川県知事が機関委任事務としてなしている平作川の管理について、その管理費用を負担している。

(3) 被告横須賀市は、下水道法三条一項により公共下水道である吉井川及び甲・乙・丙水路の管理者である。

2  営 造 物

(一) 平作川について

平作川は河口部分から上流七〇七〇メートルさか上つた地点までが河川法五条一項の二級河川の指定を受け、被告国がその管理を行つているが、同法一〇条により神奈川県知事が被告国の機関として管理を行い、同法五九条により同神奈川県が平作川の二級河川部分の管理費用を負担している。

(二) 吉井川及び甲・乙・丙水路について

(1) 吉井川

吉井川は全長一〇七〇メートルの雨水・汚水を排除する開渠であり、下水道法二条三号の公共下水道であり、同法三条一項により被告横須賀市が管理している。

(2) 甲水路

甲水路は長銀・辰巳両団地の雨水・汚水を排除するために設置された暗渠で、下水道法二条三号の公共下水道であり、同法三条一項により被告横須賀市が管理している。

(3) 乙水路

乙水路は雨水・汚水を排除するための開渠で、下水道法二条三号の公共下水道であり、同法三条一項により被告横須賀市が管理している。

(4) 丙水路

丙水路は従前からあつた水路であつたが、池田団地の造成後、その雨水・汚水を排除するようになつた一部が開渠で大部分が暗渠である、下水道法二条三号の公共下水道であり、同法三条一項により被告横須賀市が管理している。

(三) 供用開始と営造物性

吉井川及び乙・丙水路は、それがたとえ被告横須賀市主張のように供用開始がなされていないとしても、同被告において地方自治法二条二項、三項二号により公共下水道として事実上管理している以上、国家賠償法二条にいう営造物たる性質を失うものではない。

3  本件水害の発生の概要

昭和四九年七月七日の夜半から七月八日朝にかけて、台風八号の北上に伴つて移動してきた梅雨前線は、神奈川県下の各地に大雨を降らせ、三浦半島では八日午前二時ころから午前八時ころにかけてかなり強い降雨があり、その総雨量は場所によつては二五〇ミリメートルに達した。そして、平作川流域では、雨水が一気に平作川に流入したため、平作川と支流の吉井川や甲・乙・丙水路及びその他の排水路は、午前四時ころから午前六時ころにかけて乙・丙の各水路、吉井川、甲水路、平作川の順に相次いで溢れ出し、右溢水が原告らの居住する舟倉、久比里地区に流れ込んだ。そのため、この溢水により、平作川流域で、床上浸水二三八八戸、床下浸水一三〇六戸の被害が発生し、特に舟倉、久比里地区に居住する原告らは、床上浸水による甚大な被害を被つた。

4  平作川・吉井川及び甲・乙・丙水路の概況

(一) 平作川・吉井川及び甲・乙・丙水路の流域について

(1) 平作川

平作川は三浦半島の東北部に位置し、その源を大楠山に発し、三浦半島の中央の丘陵と北側の海岸よりの台地に挾まれて半島を縦断するように横須賀市衣笠栄町、公郷町、久比里を経て久里浜湾に流下する延長約七八五〇メートル、河川流域約二六平方キロメートルの河川である。また、A・B間は平作川の河口に近い部分に位置し、その区間は更に下流方向に下つたところに夫婦橋が架けられているが、右A点から夫婦橋付近までの河川は、平作川の二級河川部分の一部に属している。

(2) 吉井川及び甲・乙・丙水路

吉井川はそのほとんどの部分が横須賀市舟倉町を流れ、その河口部分で同市久比里一丁目を経て平作川に接する、全長一〇七〇メートルに及ぶ開渠の公共下水道であり、甲水路は横須賀市舟倉町の東方に位置し、長銀・辰巳両団地の雨水・汚水を排除するために設けられ、乙水路は同町の西北部に位置し、丙水路は同市池田町四丁目と五丁目の境界付近に位置し、池田団地の雨水・汚水を排除するために設けられたもので、いずれも平作川に流入する、前記2(二)(1)ないし(4)のとおりの公共下水道である。

(二) 平作川及び吉井川等の地形とその歴史

(1) 江戸時代の平作川及び吉井川

江戸時代の平作川は、その水源が当時の上平作村より出ているところから平作川と称されたが、流下するにしたがつてその呼称を異にし小矢部村では角田川、森崎村では船着川と呼ばれ、内川新田に至つて佐原川、大川、吉井川の三つに分かれたが、更に下流で合流して一条の川になり海に注いでいた。

すなわち、平作川は、正保から元禄時代には森崎から夫婦橋付近にかけて池のような状態であつたが、天保年間に三本の川に変り、夫婦橋付近で合流して一条の川になつたのである。そして、正保と元禄の中間にあたる万治年間に砂村新左衛門は右の池のような状態であつた入江部分の水田化を図り、二〇余町歩の良田を開拓した。しかし、地形・地質の性質上、水害対策を講じておく必要があつたので、海岸に長さ八町に及ぶ防波堤を築いて堤防を設け、右の三条の川については川幅を広げ川底を浚渫して排水と通船の便を図り、また河川の両側には浸水の防備と交通の便に備えるため堤防を築き、季節と地勢を考慮して植樹をし、新田の中央の最も低い部分には約七町歩の蓄水池を設けるなどし、更に数条の溝渠を通じて水利の便、水害の防止、水勢の緩急の調和を図り、河口には長さ各五間の樋門二か所を設けて潮せきの干満、排水の関係を自然に調節する装置を施すなど水害防止と潮水の流入防止のため周到な措置を講じた。

その後、新田はますます拡張されたが、右の措置にもかかわらず水害浸水を被ることが度々あり、特に天保年間にはそれが著しかつた。

(2) 明治以降の平作川及び吉井川

明治時代における平作川と吉井川は、その川幅がいずれも一〇ないし三〇メートル位でほぼ等しく、夫婦橋直前で合流して川幅が六〇ないし七〇メートルになつていた。そして夫婦橋の上流・下流ともに内川入江と称されていたが、大正一〇年ころまでには平作川が直線状になつて位置が移動し、平作川左岸側の水路が五本に増え、内川入江は夫婦橋下流だけの名称となつた。しかし、平作川と吉井川の川幅はそれまでと同様にほぼ等しく、夫婦橋直前では六〇ないし七〇メートルであつた。

(3) 終戦時ころの平作川及び吉井川

まず、平作川右岸に国鉄横須賀線の路線が、左岸に京浜急行の路線が敷設され、平作川に沿つて道路(現在の国道一三四号線)が設置された。このために、現在の舟倉町は、右道路と京浜急行の路線の鉄道敷の小高い丘に取り囲まれるような状況になつた。また、平作川は、夫婦橋直前上流の六〇ないし七〇メートルの川幅がわずか二〇メートル位に縮小され、夫婦橋と梅田橋の間に、現在の位置に人道橋と日の出橋の二つの橋が架けられた。そして、夫婦橋下流地域は、入江が宅地へと一変し、学校・住宅が建ち並ぶようになり、夫婦橋上流の京浜急行の路線沿いに人家が増えるようになつた。

なお、吉井川は、平作川と並行して走る五本の水路により途中で中断される形になつていたが、周辺流域は宅地化の様相を呈し、この川を挾んで人家が建ち並び、しかも川幅が著しく縮小し、わずか数メートル位になり、五本の水路より挾いものとなつた。

(4) 終戦後から本件水害発生までの平作川及び吉井川

まず、平作川と並行して走つていた五本の水路及びこれと直角に交つていた水路は、原形を留めない程に消えてなくなり、これに対応する水路としては吉井川上流の京浜急行車両工場を取り巻いて平作川へと通じているほぼ現在の乙水路と、梅田橋上流に通じている現在の丙水路くらいに順次なつていたが、いずれも直角に屈折したり、国道一三四号線の下をくぐり抜けて平作川に通じたり、水路の幅も下流へ行くほど狭くなるというように不自然な形状になつた。

次に、平作川の左岸も右岸も、水田のほとんどが宅地に変り、平作川及び国道沿いにあるのは、ほとんどが工場や会社という状態になつた。そのため、従来あつた宅地は、国道や工業団地から一段低い土地へと変らざるを得なくなり、例えば、国道は低い所で二・六メートル、高い所で三・四メートルないし四メートルあるが、舟倉町のうち加藤ボートの北側は一・八メートルのまま残され、その背後は京浜急行の路線の六・五メートルもある鉄道敷に挾まれるような状況になつた。

また、吉井川のほぼ東側にあつた山林は、ほとんどが宅地化され、現在の長銀・辰巳両団地となり、梅田橋の北側にあつた山林も開発されて池田団地となつた。平作川右岸の山林もまた同様であつた。

(三) 平作川・吉井川及び甲・乙・丙水路の流下能力について

(1) 平作川の流下能力

平作川の流下能力は、本件水害当時、夫婦橋よりも上流では胸壁(パラペット壁。以下、「パラペット」という。)のある地点で毎秒一三〇・一立方メートル、パラペットのない地点で毎秒五六・三立方メートルであつた。なお、夫婦橋直下は、パラペットに相当する護岸があるので、右パラペットのある地点の流下能力にほぼ近い数値が考えられるが、二本の橋脚のほか土砂、岩石、材木及び小屋等が存在していたため、その流下能力は右パラペットのない地点における毎秒五六立方メートルに近い流下能力しかなかつた。次に梅田橋付近は、流下能力が毎秒七七・一立方メートルあると考えられ、それより更に上流の地点では毎秒一〇二・二立方メートルの流下能力があった。

(2) 吉井川及び甲・乙・丙水路の流下能力

本件水害当時、吉井川は毎秒二ないし三立方メートルの流下能力を有していた。甲水路はその流下能力は不明であるが、内径一〇〇〇ミリメートルの圧送管である。乙水路もその流下能力は不明である。丙水路もその流下能力は不明(計画流量は毎秒八・三六立方メートルである。)であるが内径一一〇〇ミリメートルの圧送管である。

5  本件水害における溢水の経緯

(一) 本件水害時の降雨量について

本件水害時に平作川流域に降つた雨量は、時間最大雨量五五ないし六七ミリメートル位(上流内陸部で五五ミリメートル位、下流で六七ミリメートル位)、時間雨量四四ないし五四ミリメートル位、総雨量一八〇ないし二五〇ミリメートル位である。

(二) 平作川の溢水とその他の水路の溢水

(1) 降雨の概況

本件水害当時、降雨は海上自衛隊横須賀総監部においては午前零時一〇分ころから、宝金山においては午前零時五〇分ころから降り出したが、下流の運輸省港湾技術研究所においては午前一時四〇分から降り出した。そして、上流で午前二時ころから午前三時ころにかけて最初の大雨が降り、下流で午前二時三〇分ころから午前三時三〇分ころにかけて最初の大雨が降り、その後、断続的な大雨となつたが、下流では午前三時三〇分から午前四時三〇分にかけて小降りとなり、午前四時三〇分から午前七時三〇分にかけて再び大雨となつた。なお、時間降雨量のピークは上流が午前四時四〇分ころから午前五時四〇分ころにかけてであり、下流が午前五時四〇分ころから午前六時四〇分ころにかけてであつた。このように降雨は上流から先に降り始めて、次第に下流に移動したが、下流においては折りからの満潮(午前六時一三分)と重なることになつた。

(2) 平作川の溢水

平作川が舟倉町付近において溢水し始めた時間は、大体午前六時ころと推定される。そのころ、下流よりも早く降り出していた上流の雨水が平作川を流下してきたが、右(1)のとおり下流ではこのころ大雨になつていたので、この雨水が平作川に流入し、両方の雨水が一体となつて溢水するに至つたものと考えられる。なお、溢水した地点は、まずA・B間で、次いでそれよりも下流のC・D・Eの各点であつた。

(3) 吉井川及び甲・乙・丙水路の溢水

吉井川及び甲・乙・丙の各水路は、すべて平作川に流入しており、前記のとおり甲水路は全線にわたり暗渠、乙水路は開渠、丙水路は末端の一部が開渠で大部分は暗渠であるが、吉井川は午前四時三〇分以前に、早くも溢水し、甲水路もマンホールの蓋が午前六時ころ水圧で押し上げられ、そこから水が吹き上げられて溢れ出し、開渠の乙水路では、平作川の増水に伴う逆流がおこり、午前五時過ぎにはその逆流水と同水路を流下してきた雨水とが一体となつて溢水した。そして、平作川への流入口付近では水路の区別がつかず、池のような状態になつていた。また、丙水路も平作川への流入口近くの開渠となつている部分で乙水路と同様に平作川の増水に伴う逆流がおこり、同水路の流水と相まつて、平作川の溢水よりも先に溢水を生じた。

このように平作川の溢水に先立ち、吉井川及び乙・丙の各水路、続いて甲水路のマンホールから溢れ出した水が原告らの居住地域に浸水し始めていたが、午前六時から午前七時にかけて平作川が溢水するにおよんで、一気に水かさを増し、吉井川及び甲・乙・丙各水路並びに平作川の溢水が渾然一体となつて、たちまち原告らの居住家屋の床上にまで浸水するに至つた。

(三) 原告らの居住地区とその溢水状況について

(1) 別紙原告目録(一)1ないし36並びに別紙原告目録(二)1ないし5記載の原告らは、本件水害発生当時、別紙図面(一)表示のA地区(以下、「A地区」という。)に居住していたものであるが、長銀・辰巳両団地及び甲水路上の道路面に降つた雨水の一部は甲水路に集水されず、右道路面を滝のように流れてA地区に流入し、しかも、甲水路に設けられたa・b二か所のマンホール(別紙図面(一)表示)の蓋は、当日午前六時少し前ころに水圧に耐えかねて、二、三メートル位吹き上げられて甲水路は溢水し、溢れた甲水路の水がA地区に流入した。そして、更に吉井川も溢水し午前六時ころにはA地区全体が一面の水と化した。

(2) 別紙原告目録(一)37ないし40記載の原告らは本件水害発生当時、別紙図面(一)表示のB地区(以下、「B地区」という。)に居住していたものであるが、前記のように吉井川の雨水がA地区に集中し、しかも、その下流部分で京浜急行の路線の下をくぐり抜ける箇所で、吉井川が溢水し始め、午前六時ころにはB地区全体が一面の水と化した。

(3) 別紙原告目録(一)41ないし50並びに別紙原告目録(二)6ないし16記載の原告らは本件水害発生当時、別紙図面(一)表示のC地区(以下、「C地区」という。)に居住していたものであるが、C地区は四面を京浜急行路線の鉄道敷、加藤ボートのそばから東北に向つて通つている小高い道路、国道一三四号線、横須賀自動車学校敷地等によつて囲まれた低地となつており、その雨水はわずかに吉井川の一部だけが排水箇所になつている。そして、C地区は前記A地区の溢水とほとんど同時に溢水し、一面の水と化した。

(4) 別紙原告目録(一)51ないし72並びに別紙原告目録(二)17ないし19記載の原告らは本件水害発生当時、別紙図面(一)表示D地区(以下、「D地区」という。)に居住していたものであるが、D地区は一方に京浜急行路線の鉄道敷、他方に加藤ボート脇を通過する道路、残りを国道一三四号線等により三方を囲まれている。なお乙水路は勾配がほとんどないところ、D地区は、まず平作川の水が逆流し、更に池田団地の雨水を集水した丙水路が溢水し、しかも丙水路に集水されず道路面を滝のように流れてきた雨水及び丙水路開口部から逆流してきた平作川の水等が、D地区西北に位置する湿地帯に流入して滞水し、それらの雨水及び乙水路からの溢水がD地区に流入し始め、午前六時ころにはD地区及びその周辺は一面の水と化した。

(5) 別紙原告目録(一)73・74並びに別紙原告目録(二)20ないし25記載の原告らは、本件水害発生当時、別紙図面(一)表示のE地区(以下、「E地区」という。)に居住していたものであるが、午前六時から午前七時までの間、平作川の流水がA・B間の護岸から溢水し始め、右溢水流は舟倉町のE地区に浸入し、C地区の溢水と渾然一体となり、ついには他のA・B・D地区にも浸入し、原告ら居住地全域の水位が急激に高くなつていつた。

(6) 別紙原告目録(二)26ないし33記載の原告らは、本件水害発生当時、別紙図面(一)表示のF地区(以下、「F地区」という。)に居住していたものであるが、F地区北側は山林が開発されて住宅地となつており、東側は浦賀方面から夫婦橋に至る小高い県道があり、西側は京浜急行路線の鉄道敷があつて、それぞれ土手を形成し、南側は平作川が西から東に流れており、F地区はこれらに囲まれ、その間の低地を通つて吉井川が平作川に流入していた。なお吉井川は勾配がほとんどない状態であつた。ところで、F地区は吉井川が午前六時ころ溢水し、F地区の右原告ら居住地域一帯は一面の水と化した。

(7) 以上のとおり、吉井川及び甲・乙・丙水路からの溢水により、午前六時ころにA・B・C・D及びFの各地区一帯が一面の水と化し、それら全体の水が午前六時三〇分ころには満潮の影響を受けてその水位が更に高くなつた。

そして、平作川は、午前六時から午前七時までの間にA・B間で溢水し、同じころ日の出橋から夫婦橋に至る間の左岸に設置されたパラペットが部分的に途切れていたC・D・E各点付近(E点付近は旧人道橋が右岸の護岸より低くなつていた。)からも溢水を始め、吉井川河口部からの逆流した水とともに吉井川の溢水と渾然一体となり、F地区に浸入し、原告ら居住地域の水位が更に高くなつていつた。

6  平作川・吉井川及び甲・乙・丙水路の設置・管理の瑕疵

(一) 概要

国家賠償法二条にいう「公の営造物の設置又は管理の瑕疵」とは、公の営造物が通常有すべき安全性を欠いている状態、すなわち物的瑕疵をいい、それは客観的に判断さるべきもので、管理者の故意・過失を問わない無過失責任である。ところで、河川・水路の通常有すべき安全性は、自然的・社会的諸条件によつて決定される。すなわち河川は「洪水、高潮等による災害の発生が防止され、河川が適正に利用され、及び流水の正常な機能が維持されるように総合的に管理する」ことを要し(河川法一条)、そのため管理者に、工事実施基本計画の策定を義務づけ、その策定にあたつては、「降雨量、地形、地質その他の事情によりしばしば洪水による災害が発生している区域につき、災害の発生を防止し、又は災害を軽減するために必要な措置を講ずるように特に配慮しなければならない」とされており(河川法一六条一項、三項)、河川法施行令一〇条一項一号は「開発の状況」をも考慮すべきことを要求している。

また、公共下水道は「主として市街地における下水を排除」するための施設であり(下水道法二条三号)、下水は雨水を含み、これが設置にあたつては建設大臣の認可を要し、認可基準としては、「降水量、人口その他の下水の量及び水質に影響をおよぼすおそれのある要因、地形及び土地の用途並びに下水の放流先の状況を考慮して適切に定められていること」等が要求されている(同法六条一号)。更に、都市計画法三三条一項三号は、開発行為の許可基準として「排水路その他の排水施設が、次に掲げる事項を勘案して、開発区域内の下水道法第二条第一号に規定する下水を有効に排出するとともに、その排出によつて開発区域及びその周辺の地域に溢水等による被害が生じないような構造及び能力で適当に配置されるように設計が定められていること、この場合において、当該排水施設に関する都市計画が定められているときは、設計がこれに適合していること。イ当該地域における降水量、ロ前号イからニまでに掲げる事項及び放流先の状況」を考慮すべきことを定めている。

これを本件水害に即して述べると次のとおりである。

(二) 平作川・吉井川及び甲・乙・丙水路の設置・管理の瑕疵

(1) 平作川の設置・管理の瑕疵

平作川の流下能力は、上流の五郎橋で毎秒約一〇〇立方メートル、その下流の梅田橋で毎秒約八〇立方メートルあつたが、夫婦橋直下では毎秒五〇ないし六〇立方メートルであつて、下流へ行く程流下能力が低くなつていた。しかも地形を検討すると、平作川のA・B間に相当する国道部分は、隣接する他の部分に比較して低くなつており、梅田橋付近の標高は三・二メートルであるのに対し、その上流付近では四・〇メートルから四・五メートルと高くなり、梅田橋からB点にかけては、一部高い所で三・五メートルの地点もあるが、平均して二・五ないし二・六メートルと低く、最低で二・二メートルと下がり、B点付近では二・七メートルあり、それから下流の国道では、再び三・一一メートル、三・四九メートルと高くなつており、A・B間では溢水しやすい状態になつていた。

また、夫婦橋直下は、二本の橋脚があり、それと岸壁との間に土砂、岩石、小屋及び材木等があつたため、狭さく部分を形成し、これが水位を上昇させる原因となつていた。なお、平作川の夫婦橋直前の上流左岸は、パラペットが設置されていたが、右パラペットにはC・D・Eの各点にそれぞれ二・六メートル、一メートル、四メートルの幅の切れ目があつたので、それらから溢水する危険があつた。しかも、E点付近では旧人道橋は右岸の護岸よりも低くなつていたため、容易に流水に水没して平作川の流下を妨げる危険性があつた。

(2) 吉井川及び甲・乙・丙水路の設置・管理の瑕疵

吉井川は原告ら住民が居住する舟倉町の雨水を集めて平作川に注いでいたが、その幅員は狭小で、不規則であるばかりか勾配がほとんどなく、しかも曲りくねつており、また満潮の影響を受けるのに水門が整備されておらず、大雨の度ごとに溢水する危険な水路であつた。しかも吉井川は、平作川流域の乱開発のため、雨水流下の負担が増加し、昭和四六年当時少くとも毎秒一五立方メートルの流下能力が必要であるのに、その流下能力は従来のままわずか毎秒二ないし三立方メートルしかなかつた。特にC地区は吉井川の一部だけが排水箇所となつていたため、右流下能力では雨水の排水は到底できなかつた。また、吉井川は、下流の京浜急行の路線をくぐる部分がくびれて水路幅が狭くなり、流水を防げる状態になつており、しかも、右のとおり中流部分では幅員が広い箇所で一一・三メートル、狭い箇所で四・二メートルと広狭の差が激しく、そのうえ不自然な直角形の屈折をしたり(特に京浜急行路線のガード下付近)、勾配がほとんどなく、吐口の水門部分が流水の阻害要因となつているなど、雨水流出のための水路としてほとんど機能していなかつた。

甲水路は、長銀・辰巳両団地の雨水・汚水を集水し、急勾配の坂道を下り、サイフォン方式により吉井川をくぐり抜けて平作川に注いでいたが、その直径が狭小(内径一〇〇〇ミリメートル)であり、しかも途中のマンホールの蓋が開きやすかつたので、平作川の水位上昇により、途中のマンホールから雨水等が噴出する危険があつた。

乙水路は、京浜急行車両工場の堀の水を受けて平作川に注いでいたが、勾配がほとんどなく、直角形に不自然に屈折する狭い水路で、満潮時には逆流し、大雨の場合は絶えず溢水するなど、危険な水路であつた。

丙水路は、池田団地(一七ヘクタール)からの雨水を集めて、鉄道敷及び国道をくぐり抜けて平作川に注いでいたが、従来から勾配がほとんどなくて幅員が狭く(圧送管の内径は一一〇〇ミリメートル)、不自然に屈折し、満潮の影響を受け、大雨には流水が停滞してしまう水路であつたが、池田団地の雨水を集水するようになつてからも、従来のまま使用されていたため、雨水を正常に流下できない状態であつた。

また、吉井川及び甲・乙・丙各水路は、平作川の左岸に吐口を有していたが、平作川の水位が上昇すれば必然的に各水路の自然流下を阻害し、かつ、逆流していたので、原告ら居住地域に内水滞水の危険を常に有していた。

(三) 平作川・吉井川及び甲・乙・丙水路改修の懈怠

(1) 平作川流域の土地利用状況の変化

平作川流域の山林開発は、明治時代から第二次大戦中にかけては、既に検討したとおり、見るべきものはないが、水田埋立てについては、戦時中の横須賀線敷設、国道設置、京浜急行路線の敷設等がなされたため、原告ら住居地域は大きく変貌した。その後、平作川流域は、山林開発、水田埋立て、溜池の埋立て等による宅地造成が、これらによつてもたらされる影響を考慮することなく無計画に進められていつた。

そのおもな開発地は、昭和三六年久里浜工業団地(京浜急行車両工場を含む。)一五六・二ヘクタール、同三八年森崎団地四六・八ヘクタール、同三九年不入斗町団地一八・八ヘクタール、同四一年長銀団地二〇ヘクタール、同四二年池田団地一四・五ヘクタール、同四三年から同四八年まで五八ヘクタール等であり、これを全体的にみれば、平作川流域二六〇八ヘクタールのうち、一四・二パーセントにあたる三七二ヘクタールも開発されているのである。これらの開発は、当然山林の切り崩しのほか田畑の埋立てによつてなされるが、昭和三五年から同四五年までの間に、田畑は平作川流域で、全体の六五パーセントに相当する二〇二ヘクタールが、溜池は六七パーセントに相当する三・二ヘクタールがそれぞれ埋立てられた。

元来山林には保水能力が、田・畑・溜池には貯水能力がそれぞれあり、一時に降つた大雨をそれらに貯溜し、徐々に吐き出していく機能を有しているところ、右開発、埋立てによつて概算で六〇万八八〇〇立方メートルの貯水能力が失われたことになり、雨水は逃げ場を失い、平作川・吉井川及び甲・乙・丙水路に一時に流れ込むことになつた。

そして、本件被害地区は、昭和一七年ころに京浜急行路線の鉄道敷、同一八年ころには国道が設置されたため、それらに囲まれてあたかも水がめのような状態になり、しかも同三〇年代から同四五年ころにかけて、京浜急行車両工場、工業団地、森崎団地、長銀団地、池田団地等が造成されたため多くの山林が伐採され、田・畑・溜池も埋立てられた。

また、これに伴つて流域の人口も増加し平作川・吉井川及び甲・乙・丙水路は急速に都市河川としての様相を呈するに至つた。

そして原告らの居住地域は水害常襲地帯となり、昭和三三年ころから毎年のように、吉井川や乙・丙水路の溢水により、床上又は床下の浸水の被害を被つてきたのであり、特に同年及び同三六年の二度にわたつて平作川は溢水したから、同三三年の床上浸水以来原告ら居住地域における水害対策が緊急に必要となつた。このことは新聞でも指摘され、被告横須賀市も認め、横須賀市市議会でもしばしば問題とされていたところであり、住民も陳情を重ねてきたが、その水害対策の必要性は、昭和三六年の再度の水害及び平作川流域の開発によつて更に高まつた。しかし、これに対する行政の対応は極めて緩慢で、被告横須賀市は昭和四八年にポンプ場用地買収にかかり同五二年に完成し、被告国及び神奈川県に至つては、本件訴訟提起後に初めて改修工事に取りかかつたに過ぎなかつた。

なお、被告横須賀市は、追浜地区において昭和四一年に都市下水路を設け、同四三年にポンプ場を建設しているが、原告ら居住地域は、同三八年の横須賀地域防災計画で「溢水氾濫の危険がある」とされ、水害危険区域の設定を受けていたにもかかわらず、同地域の水害対策は、人口増加率が舟倉・久比里地区より低い追浜地区よりも八年以上も遅くなつていたのである。これは下水路の放流先である平作川の整備が遅れていたからにほかならないが、平作川自体は被告国及び神奈川県の責任であるけれども、吉井川及び甲・乙・丙水路の雨水流出量を増大させながらも何らの対策も立てなかつた点は被告横須賀市の責任である。

(2) 被告らのとつた水害対策

ア 過去における水害被害

原告ら居住地域は、過去においてしばしば水害を蒙つてきた水害常襲地帯であり、原告らの多くの者は、地盛り・床上げ等の自衛措置をとり、あるいは関係機関に陳情するなどして、できる限り被害を回避するよう努力してきたが、被告らが原告ら居住地域の水害常襲性を軽視し、適切な水害防止対策を何ら講じなかつたため、長年にわたり水害被害を余儀なくされた。

原告ら居住地域における、昭和三三年から同四八年までの間の水害被害の歴史は、別表(一)に記載したとおりである(なお、各表において、×印が記載されているのは、当該原告が、その年度において、いまだ本件水害時における居住地に居住していなかつたことを示しており、また各被害については、その年度における最大の被害を記載したものである。)。

イ 原告ら居住地区の常襲水害危険区域化

右アにおいて明らかなとおり、原告ら居住地域を含む平作川の流域の土地利用状況は、昭和三〇年代以降大きく変化し、それに伴つて、原告ら居住地域は、昭和三三年以降同四八年までの間、毎年何らかの水害被害を生ずるに至り、そのため原告らの中には、地盛り・床上げをするなどの努力をしたにもかかわらず、その後も水害被害を受けている者が少なくない状況にあつた。

このように原告ら居住地域は、本件水害当時には少し強い雨が降れば広範囲に水害被害が発生する地域になつていたのであつて、しかも地域住民の個別的努力をもつてしては到底水害被害を回避し得ない地域であつたから、まさに水害常襲地帯といえるものであつた。

ウ 被告国及び神奈川県の水害対策

原告らが平作川に瑕疵があると主張している梅田橋と夫婦橋の区間において、昭和三九年から本件水害発生の前年である同四八年までに、平作川の流下能力を高めるための工事がなされたのは、久里浜地先堤防嵩上工事四〇〇メートルのみであり、右工事は同四七年になされたから、同三九年以来九年間もの長きにわたつて、梅田橋・夫婦橋間の改良工事は放置されていた。しかも、右の工事費は昭和三九年から同四八年までの総工費金六億九〇〇二万二〇〇〇円のうち、わずか一九八万円であつて全体の二・八パーセントにしか過ぎず、これを物価上昇率を加味して換算すれば、極めて微々たる工事費になることは明白である。更に重要なことは、仮に右嵩上工事が実施されたとしても、従来からパラペットの切れ目が存在し、しかも吉井川が平作川に合流する付近が開放状態になつている以上、平作川の水位が上昇すれば必然的にそれらの部分から平作川及び吉井川の水が逆流し、また満潮時に海水も流入するのであるから、水害防止にとつて、何ら効果のない工事であつたことである。

また本件水害発生前の平作川は、上流の五郎橋付近において毎秒約一〇〇立方メートルの流下能力があつたのに対し、下流の梅田橋において毎秒約八〇立方メートルの流下能力しかなく、これに五郎橋から梅田橋の間で降つた雨水が更に流入してくるのであるから、当然のことながら梅田橋付近及びその下流は、五郎橋付近の流下能力以上のものを有していなければならないのである。それにもかかわらず梅田橋付近の流下能力が右のとおりであるばかりか、それよりも下流の夫婦橋付近では、更にこれを下回る毎秒五〇ないし六〇立方メートルしか流下能力がなく、しかも満潮の影響は、梅田橋付近まで及んでいたのであるから緊急に水害対策工事を実施する必要があつたことは明らかである。しかるに神奈川県は昭和三九年に夫婦橋付近の計画高水流量を毎秒三〇〇立方メートルと計画しながら改修をしないまま放置していたのである。

エ 被告横須賀市の水害対策

被告横須賀市においては、昭和三四年から同四七年に至る一四年間に、吉井川の流下能力を高めるような改良工事を全く実施していないばかりか、同三六年から同四一年までの六年間は、改良工事はもちろん、改修工事さえしていない。また、吉井川については、昭和三三年に既に新聞等でその危険性と対策の遅れとが指摘されていたのに、被告横須賀市はそれから一〇年過ぎた同四三年にポンプ場がまず流末の施設として必要になつたと認識するようになり、同四八年に至つて初めて舟倉ポンプ場設置に関する費用を計上しているに過ぎない。なお、乙水路及び丙水路については、改良工事はもちろん改修工事さえなされていなかつた。

オ 被告国、神奈川県及び被告横須賀市相互の対応

被告らは、平作川と吉井川等の各水路が、互いに関連していることを認識していたが、相互の間でなされた対策としては、神奈川県においては、昭和三六年に県知事が被告国からの大幅な補助金を出すように全県あげての運動を促進するための同盟を結成し、被告横須賀市においては、同三九年、同四〇年、同四三年に市長が市議会において水害対策に関し、神奈川県への「お願い」や被告国からの補助等を強く希望するというものであつたが、それぞれ関連なく行われ、神奈川県と被告横須賀市との間で水害対策について協議がもたれたのは、同四四年度が初めてであり、しかもその内容において具体的なものは何ひとつなく、同四五年度のものも、五郎橋よりも上流部を問題にしているに過ぎないという有様であつた。

(四) 本件水害時の降雨量の予見可能性について

前記5(一)のとおり平作川流域には時間最大値でみると、おおよそ五五ミリメートルから六七ミリメートルの雨が降り、下流では時間最大値六七ミリメートル前後、上流内陸部で時間最大値五五ミリメートル前後と推定され、総雨量でみると、一八〇ミリメートル前後から二五〇ミリメートル前後の雨が降つたと推定されるので、この雨量を過去の豪雨の例と比較すると次のとおりである。(なお、比較をする場合、時間最大値は一時間の雨量の値が最大となるような一時間を適宜に切つたものであり、一時間雨量は一定の一時間毎の計測値をそのまま記録したものだから過去の一時間雨量と時間最大値とを単純に比較するのは合理的でない。)。

まず、一時間雨量でみると、本件水害当日の最高値は、海上自衛隊横須賀総監部で五四ミリメートル(五時から六時)、神奈川県宝金山で四四・三ミリメートル(五時から六時)、運輸省港湾技術研究所で四八ミリメートル(六時から七時)であり、これに対し、横須賀市の過去の雨量記録は、横須賀市消防本部における測定値によれば、四七ミリメートル(昭和四五年七月一日七時から八時)、三〇ミリメートル(昭和四八年一一月一〇日一〇時から一一時)、二四ミリメートル(昭和四七年七月一五日六時から七時)、一九ミリメートル(昭和四六年八月三一日七時から八時)である。

なお、横須賀市消防本部には昭和四四年五月一五日からの測定値のみが存在し、それ以前の記録がないようであるから降雨量予測の推定資料としては不十分であるが、右のとおり測定し始めた翌年には、時間雨量四七ミリメートルを記録しており、この記録は本件水害時の宝金山の計測値より高く運輸省港湾技術研究所の計測値に匹敵するものであり、更に、本件水害後の昭和五〇年七月四日、衣笠消防署で時間雨量四〇ミリメートル、浦賀出張所で五八・八ミリメートルを記録しているのであるから、本件水害時の時間雨量に匹敵する降雨が昭和四四年以前にも相当あつたことは十分推測されるというべきである。

また、戦後の横須賀市の日雨量によると時間雨量で四七ミリメートルを記録した昭和四五年七月一日の日雨量は一八二ミリメートル(又は一六四・五ミリメートル)であり、本件水害当日の運輸省港湾技術研究所の記録に匹敵し、更にさかのぼつて、本件水害当日の日雨量に匹敵する一八〇ミリメートル前後から二五〇ミリメートル前後を超える日雨量の記録を拾いあげると、昭和二一年一七四・四ミリメートル、同二三年二〇七・〇ミリメートル、同二四年二二六・八ミリメートル、同三三年三四四・六ミリメートル(九月二六日狩野川台風)、同三六年三二一・〇ミリメートル(六月二八日)、同四一年二三六・五ミリメートル(六月二八日)、同四五年一八二・〇ミリメートル(又は一六四・五ミリメートル。七月一日)、同四九年(本件水害)、同五〇年一九五・三ミリメートル(又は二三〇・三ミリメートルから二三二・〇ミリメートル。七月四日)等があるから、同二一年から同五〇年までの三〇年間に、日雨量でみた場合、本件水害当日の雨量(前記のように一八〇ミリメートルから二五〇ミリメートル前後の雨量)に匹敵するかそれ以上の降雨が、約八回あり、二〇〇ミリメートルを超える降雨だけでも五回もあるのである。

なお、右のとおり横須賀市における昭和四四年以前の時間雨量の記録は不明だが昭和四五年七月一日の時間雨量の最高が四七ミリメートルであり、その日雨が少なくとも一六四・五ミリメートルであつたことから推測すれば、これを超える日雨量が記録されているときには、時間雨量もこれに匹敵するか、超えていたと推測されるのである。

以上のとおり本件水害当日の降雨は、横須賀市域において決して「未曾有」ではなく、十分予想しうるものであつたのである。

(五) 結び

右のとおり、平作川のA・B間は下流の方が流下能力が低く、標高も低くなつていて溢水しやすい状態になつていたのに放置され、夫婦橋直下の狭さく部分も水位を上昇させていたのに放置され、C・D・E各点はそれぞれパラペットの切れ目(それぞれ二・六メートル、一メートル、四メートル)があり、溢水の危険があつたのに放置され、しかもE点付近には旧人道橋があり、右岸の護岸よりも低く、容易に流水に水没して流水を防げる状態であつたのに放置された。平作川は流域の開発とともに流下すべき水量が増加していたことは右のとおりであつて、右各部分からの溢水も当然予想されていたから、本件水害時までに改修工事を完成していなければならなかつた。

また吉井川及び甲・乙・丙水路についても右のとおりその形状、流下能力等から溢水の危険があり、それは当然予想されていたから、本件水害時までに浚渫、拡幅等の改修工事を完成し、またポンプ場建設をしていなければならなかつた。

しかるに、被告らが実施した改修工事等の水害対策は前記のとおりであつて、到底本件水害を回避しうるに足らないものであつた。

以上のとおり、平作川・吉井川及び甲・乙・丙水路は、それぞれその設置・管理に著しい瑕疵があつたことは明らかである。

7  平作川・吉井川及び甲・乙・丙水路の設置・管理の瑕疵と本件水害発生との因果関係

以上の次第であつて、本件水害発生の原因は前記のとおり、平作川・吉井川及び甲・乙・丙水路の設置・管理に瑕疵があつたため、本件瑕疵部分である平作川のA・B間及びC・D・E各点並びに吉井川及び甲・乙・丙水路から多量の水が溢水したためであつて、右各河川・水路の設置・管理の瑕疵と本件水害発生との間に因果関係のあることは明らかである。

8  共同不法行為について

(一) 概要

一般に、共同不法行為が成立するためには、それぞれの行為が客観的に関連共同していればよいが、本件では公の営造物の瑕疵という物的瑕疵における共同不法行為責任が問題となつているので、それぞれの営造物の瑕疵の間に、客観的関連共同性があること及び各営造物の管理主体間においても、行為の客観的関連共同性があることについて、以下述べることとする。

(二) 吉井川と平作川の流下機能における地形上の関連性

被告横須賀市の管理する吉井川及び甲・乙・丙水路は雨水・汚水を集めて流下し、最終的には、被告国の管理にかかる平作川に合流するが、前記地形上、右吉井川等の流速又は流れの向きは、平作川の水位の状況に応じて変化し、平作川の水位の上昇は右吉井川等の排水能力を低下させて、本件原告らの住宅周辺に溢水又は滞水の危険を増大させる関係にあるから、右吉井川等と平作川の流下機能における瑕疵は地形上密接かつ直接的に関連している。すなわち、吉井川の流下機能は平作川の水位と密接に関連し、相互に影響しあつていたのであり、吉井川が溢水しないように流下するためには、平作川がそのような水位に保たれていなければならず、仮に吉井川が平作川の水位に影響されて溢水すれば、それは平作川の瑕疵であるとともに吉井川の瑕疵でもある。なぜなら両者は吉井川河口で連結された一個の水系に属するからであり、このことは、甲・乙・丙水路についても同じである。

(三) 被害の特質からみた関連性

本件水害をもたらした水は、前記地形上の関連性及び水の流動体としての性質上から渾然一体となり、相互に影響しあつて浸水被害地域の水位を高め、被害を助長している。そしてその被害の性質上、被害の有無及び程度を決定づけるものは、原告らの各居住家屋に侵入した水がどこから来たかという水の帰属性の問題ではなく、水位そのものであるから、その水位助長の原因となつた平作川・吉井川及び甲・乙・丙水路の管理の瑕疵は、相互に密接に関連しているといえるのである。しかも、水の性質上渾然一体となつて水害の被害をもたらすことから、平作川か吉井川かいずれの水による被害かを判別することはほとんど不可能に近い。

(四) 管理主体の属性からみた被告らの責任の関連共同性

(1) 河川・水路管理の一般的特性

河川・水路は、その管理が上流・下流及び支流その他、公共下水道を含めた水路に至る全体について、特に流域の開発の状況を考慮し、有機的かつ総合的になされなければ、水を人為的に制御して、安全かつ円滑に流下させることはできない。

(2) 河川及びその流域水路の管理責任の本質的関連性

河川・水路の管理が建設大臣、都道府県知事、市町村に分散されているのは、行政技術上の問題に過ぎないのであつて、各公共機関は、自らの管理する営造物が他の公共機関の管理する営造物との有機的、統一的な関連において、水害防止の効果をあげうるよう配慮し、もつて地域住民に対し、溢水の危険を及ぼさないようこれを管理すべき責任がある。

(3) 被告らの平作川・吉井川及び甲・乙・丙水路管理の関連共同性

前述したとおり、建設大臣らによる河川・水路の管理責任の分担は、行政技術上のものに過ぎないのであつて、それらの管理権の根源は住民の信託に由来する。そして、本件水害は、被告国及び神奈川県の平作川管理の懈怠と被告横須賀市の吉井川及び甲・乙・丙水路管理の懈怠の競合した原因に基づき発生したものであるが、そもそも、被告らの管理懈怠の競合を生じた管理行為は単なる私的企業の場合と異なり、公共機関の所為として、信託者たる地域住民を浸水被害から守るため緊密な一体性を有すべきものであるから、被告らの平作川及び吉井川等の管理懈怠は、本件水害による被害者結果に対し行政上も関連共同性を有している。

また法令上も種々の規定が、下水道・河川が溢水せず正常に流下できるようにするために、行政側相互の緊密な協力関係を定めており、河川・下水道を溢水させず正常に維持・管理することはまさに共同の法的責任である。

(五) 結び

以上にみたように、被告国と同横須賀市は、本件水害発生地の地形上及び被害の特質上、更に行政上の関連共同性のあることから、本件水害発生に対し強い関連共同性を有するものであり、民法七一九条により共同不法行為者としてその責に任ずべきものであるが、他方被告神奈川県も右被告国の管理する本件平作川の管理費用負担者として、国家賠償法三条一項により損害賠償責任を負うものであるから、右法理により当然共同不法行為者たるの責任を免れない。

9  原告らの損害

(一) 原告らの受けた床上浸水被害

本件水害により、原告らはいずれも、別紙被害一覧表記載のとおり、最低二〇センチメートルから最高一七六センチメートルにわたる床上浸水の被害を受けたが、本件水害により、原告らが受けた床上浸水被害の実情は、次のとおりであつた。すなわち、原告らの多くは、従前受けた水害の忌まわしい思い出のために、前日来の降雨が気になつて熟睡できず、本件水害当日も早朝から氾濫による汚濁水が床上まできそうな状況であつたので、朝食をとる間もなく、次第に増水する汚濁水に体をぬらしながら、家財道具を無我夢中で片づけたものの、そのほとんどを片づけ切れないまま浸水位が高くなり、自分の身さえ危険になつたため、避難せざるを得なかつた。しかも、そのように苦労して折角片づけた家財道具も結局汚濁水につかり、あるいはそのようなことにならないように、時々見回りをしなければならなかつたし、床上浸水になりそうな状況に気づくのが遅れた原告らは家財を片づける間もなく避難するのが精一杯であつた。

また、原告らは、家の中で家財道具を片づける際、床板を踏み破つて体をすりむいたり、頭を色々な箇所にぶつけるなどの危険に遭遇したが、家の外では汚濁水が腰のあたり以上まであつて歩きにくいうえ、鉄道の枕木、ガスボンベその他さまざまなものが流れてきたため危険な状況にあつた。このように、避難すること自体が、自分の身体・生命の危険をかけたものであつた。

なお原告ら及びその家族のほとんどは着のみ着のままでの避難を強いられたため、着替え類や食料を確保することはできず、運よく避難先でズボン等を借りることができても、下着は汚濁水でぬれたままのものを身につけざるをえないとか、差し入れの食料も汚濁水でぬれた手で、素手のまま食べざるをえないなどの苦痛を被つた。しかも、避難中は、便所も使用できないため、この面でも極端に不自由を強いられた。

このように、避難中の原告らは極めて不健康・不衛生な環境に身を置かざるをえなかつたのである。

そして、ようやく汚濁水がひけた後は、原告らは復旧作業につとめなければならず、原告ら及びその家族は、親戚や知人の手伝いを受けながら、汚濁水につかり、泥が付着した建物や家財道具を水で洗うなどしたが、建物は汚濁水につかつたためなかなか湿気がぬけず、畳もすぐには入れられない状況にあつたため、原告ら及びその家族のうち、親類に身を寄せることができる者は肩身を狭くしながらも親類の家に身を寄せ、そうでない者は、やむなく寝るに必要な範囲にのみ新聞紙を敷いて、その上に畳を置くなどして不便な生活をしのいだのである。

結局、建物が乾き、原告ら及びその家族が曲がりなりにも、それぞれの住居で通常の生活を送れるようになつたのは、早い者でも、本件水害後一か月たつてからであり、この間、原告らは家族団欒の場所を持つこともできなかつた。

また、本件水害により、家財道具のうち、あるものは流失し、あるものはもはや用をなさなくなつていたのであり、その中にはアルバムや、昔集めた詩集など家族一人一人の思い出として大切にされていたものも含まれている。

更に、本件水害直後、原告らは、自宅の風呂が使えず、銭湯も営業していなかつたため入浴できず、汚濁水につかつた体を洗うこともできないなど不衛生な状態に置かれ、体調を崩し、病床に伏せる者もでる状態であつた。

しかも、原告らのほとんどが再度の水害に備えてさまざまな工夫をしており、本件水害後も本件水害の悪夢は今なお原告ら及びその家族の心に傷跡を残し、今後水害発生の恐れが根絶されるまで続くのである。

(二) 床上浸水被害の特色

床上浸水被害の特色は、次のようにまとめることができる。

(1) 被害の包括性

床上浸水による被害は、既に右(一)で述べたとおり、生活環境からの強制隔離、生活環境・生活資料の破壊・喪失、生活環境復旧のための労働強制、生命・身体・財産の侵害に対する心理的圧迫というそれぞれ互いに有機的にわかちがたく結びついた、財産的・非財産的損害、更には身体的・精神的損害のすべてを内容とするものであり、言替えれば、原告らの有すべき健康で文化的な生活を享受する利益そのものの侵害である。

(2) 被害の共通性

水害による被害は、かなり広範囲に居住する者に及ぶものであり、本件においても原告らが同一水害によつて被害を受けたものであり、これらの者に共通な被害は、右(一)で述べたとおり健康で文化的な生活を享受する利益の侵害である。

したがつて、原告らの受けた被害は、単なる家庭の構成員である個人の被害としてではなく、共同して家庭生活を営む家族全体の被害として把握しなければならないし、このような平穏な家庭生活を営む利益には、各家庭の構成あるいは資産等により価値の大小があるべきではないので、その被害については、平等に取り扱われなければならない。

(3) 浸水位による被害の軽重

建物・敷地等を含めた人間の生活環境は、生活の必要性が満たされるような生活機能中心に構成され、特に建物内の生活様式は人間の運動機能とも密接に関係づけられているので、床上浸水位の上昇は、運動機能の加速度的な阻害、生活資料の単なる損傷から破壊・喪失という事態を招き、生活環境全体が生命・身体に対する危険な状態へと転化し、人間は、そこからの離脱を余儀なくされ、浸水がひいた後にも生活環境復旧のための労働を強制されることになる。しかも、浸水位が高ければ高い程復旧作業量も増加するのであるから、床上浸水による健康で文化的な生活を享受する利益の侵害という被害は、浸水位が高くなればなるほど、その被害の程度も深甚になるという特色を有する。

(三) 原告らの損害額

(1) 損害の性質

ア 健康で文化的な生活を享受する利益の侵害(包括一律請求)

右のとおり、本件による被害の性格を直視するならば、この被害を構成する個々の損害を他から分離して構成するのではなく、これら個々の損害を包括した健康で文化的な生活を享受する利益の侵害そのものを損害として構成することが必要である。そこで、原告らは、その家族構成、資産等の違いにかかわらず、ただ人間の運動機能・生活機能に対する制約が前述のとおり飛躍的に増大すると考えられる床上浸水位九〇センチメートル以上とそれ以下の二つのランクのみに分けて一律に、健康で文化的な生活を享受する利益の侵害そのものに対する賠償を求めるものである。しかしながら、原告らの受けた被害は、人間にとつて極めて基本的なものであるために、本来金銭をもつてこれに代替することはできないものであるが、あえて金銭的に評価するならば、単に原告ら各個人だけではなく、原告ら家族全員の受けた物質的損害、精神的損害、身体・健康に関する損害等もろもろの損害を考慮せざるをえないのであるから極めて高額なものとなることは明白である。

したがつて、これをどのように控えめに見積もつても、床上九〇センチメートル未満の場合は金一〇〇万円、床上九〇センチメートル以上の場合は金一五〇万円を下回ることはありえない。

イ 慰藉料としての損害額

仮に、原告らの包括一律請求の主張が認められないとしても、本件のように物質的損害、身体・生命・健康に関する損害、精神的損害及びその他の社会的経済的損害を画然とさせることのできない被害においては、これらの損害を一括し、慰藉料として評価・算定することが相当であり、この場合においても床上浸水九〇センチメートル以上と九〇センチメートル未満に分け、それぞれ慰藉料額が金一五〇万円、金一〇〇万円を下回ることはないものである。

(2) 弁護士費用

原告らは、本件事案に鑑みて本件訴訟の提起及び追行を本件訴訟代理人らに委任した。

すなわち、別紙原告目録(一)記載の原告らは、昭和五一年一一月三日、別紙原告目録(二)記載の原告らは、同五二年七月三日、それぞれ原告ら訴訟代理人との間において、弁護士費用を請求額の一五パーセントとする旨の合意をした。

よつて、本件事案の内容に鑑み、原告らの負担すべき、各原告の前記損害額一五パーセントの割合による弁護士費用は、これをも損害として被告らに負担させることが相当である。

10  結  論

よつて、原告らは被告らに対し、別紙原告目録(一)の原告らのうち1ないし3、5、12、13、21、22、32、33、35、37ないし39、43、44、46ないし49、57、58、62、63、66ないし69、71ないし74の原告らは各金一一五万円、別紙原告目録(一)の原告らのうち、その余の原告らは各金一七二万五〇〇〇円、別紙原告目録(二)の原告らのうち1、3、5、6、9、10、13、15、18ないし21、24ないし28、32の原告らは各金一一五万円、別紙原告目録(二)の原告らのうちその余の原告らは各金一七二万五〇〇〇円と金一一五万円の支払いを求める原告らについてはうち各金一〇〇万円、金一七二万五〇〇〇円の支払いを求める原告らについては各金一五〇万円に対する本件不法行為の日である昭和四九年七月八日から支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を各自支払うことを求める。

二  請求原因に対する認否

(被告国及び同神奈川県)

1請求原因1(一)のうち、昭和四九年七月八日平作川が溢水したことは認め、その余の事実は不知。同(二)(1)、(2)はいずれも認める。

2同2(一)は認める。

3同3のうち、昭和四九年七月八日梅雨前線が神奈川県下の各地に大雨を降らせ、三浦半島では午前二時から同八時までの間強い降雨があり、日雨量は場所により二五〇ミリメートルに及び、県下で家屋全壊、床上、床下浸水等の被害が発生したこと、平作川も右降雨により溢水したことは認める。

4同4(一)(1)は認める。同4(一)(2)のうち吉井川が平作川に接していることは認め、その余の事実は不知。同4(二)(1)のうち、内川入江は万治年間の砂村新左衛門が埋立てて新田を作つたと言い伝えられていること、その際平作川の前身となる水路が設けられ、下流は現在の夫婦橋付近で海に注いでいたことは認める。同4(三)(1)のうち本件水害当時夫婦橋付近に小屋、材木等があつたことは認め、平作川の流下能力については否認する。

5同5(一)のうち、日雨量が約二五〇ミリメートルであることは認め、その余は否認する。同5(二)(1)のうち、本件水害時の時間降雨量のピークがほぼ原告らの主張に近い上流で昭和四九年七月八日午前五時ごろ、下流で同六時ころであつたことは認める。同5(二)(2)のうち、平作川が溢水したのが右同日午前六時であつたこと、平作川のC・D・Eの各点から溢水したことはいずれも否認する。同5(三)(1)ないし(7)のうち、原告らの居住地区及び溢水状況は不知。

6同6(一)(2)のうち、平作川の流下能力が五郎橋で毎秒一〇〇立方メートル、梅田橋で毎秒八〇立方メートルはあつたこと、夫婦橋下に土砂があつたこと、パラペットが設置されているが、切れ目があつたことは認め、平作川の夫婦橋の流下能力が毎秒五〇ないし六〇立方メートルであつたこと、河岸の高さ、A・B間で溢水しやすい状態であること、夫婦橋下が狭さく部分を形成し、水位の上昇原因となつていたこと、旧人道橋が容易に水没して平作川の流下を妨げる要因になつていたことはいずれも否認する。同6(三)(1)のうち、平作川がその流域において昭和四〇年ころから宅地開発が進められ、それによつて田畑、丘陵地等の一部が宅地化したこと、そしてそれらの土地の保水能力が低下したことは認め、被告国及び神奈川県が本件訴訟提起後初めて平作川の改修工事に取りかかつたことは否認する。同6(三)(2)ア・イは争う。同6(三)(2)ウのうち、平作川の流下能力が五郎橋付近で毎秒約一〇〇立方メートル、梅田橋付近で毎秒約八〇立方メートルあつたこと、神奈川県が昭和三九年に平作川の河口において計画高水流量毎秒三〇〇立方メートルとする改修計画をたてたことは認め、その余は否認する。同6(四)・(五)は否認する。

7同7のうち、本件水害の発生原因については否認し、被告国及び同神奈川県の賠償責任については争う。

8同8・9についてはいずれも争う。

(被告横須賀市)

1請求原因1(一)のうち、別紙原告目録(一)、(二)1ないし5、17ないし33の原告らが同記載のとおり、本件水害時にそれぞれ横須賀市舟倉町及び同市久比里一丁目に居住していたこと、承継人が被承継人を相続したこと、本件水害時に平作川がA・B間から溢水し、吉井川の一部及び乙・丙水路が溢水したことは認め、甲水路が溢水したことは否認する。その余は不知。

同1(二)(1)、(2)は認める。同1(二)(3)のうち、甲水路が下水道法二条三号規定の公共下水道であることは認め、その余は否認する。

2同2(一)は認める。

同2(二)(1)のうち、吉井川が全長一〇七〇メートルの雨水・汚水を排除する開渠の水路であり、被告横須賀市が管理していることは認め、その後は不知。同2(二)(2)は認める。同2(二)(3)、(4)のうち、乙・丙水路が下水道法二条三号の公共下水道であることを否認し、その余は認める。

3同3のうち、乙・丙水路及び吉井川・平作川が午前四時ごろから順次溢水したこと、甲水路が溢水したことは否認し、平作川流域で雨水が一気に平作川に流入したことは不知。その余は認める。

4同4(一)(1)は認める。同4(一)(2)のうち、吉井川及び乙・丙水路が下水道法二条三号の公共下水道であること、丙水路が池田団地の雨水・汚水を排除するために設けられたことは否認し、その余は認める。

同4(二)(1)は不知、同4(二)(2)のうち、明治以降、内川入江は夫婦橋下流だけの名称となつたことは認め、その余は不知。同4(二)(3)のうち、舟倉町における京浜急行路線の鉄道敷が小高い丘となつている点は否認し、平作川が夫婦橋直前上流の六〇ないし七〇メートルの川幅がわずか二〇メートル位に縮小されたこと、吉井川は平作川と並行して走る五本の水路が途中で中断されて宅地化の様相を呈し、この川を挾んで人家が建ち並び、しかも川幅が著しく縮小し、わずか数メートル位になり、五本の水路より狭いものとなつたことは不知、その余は認める。同4(二)(4)のうち、終戦から本件水害発生までの間に平作川流域の水田が宅地化するのにともなつて、従来あつた宅地が国道や工業団地から一段低い土地へと変らざるを得なかつたこと、吉井川のほぼ東側にあつた山林がほとんど宅地化されたことは否認し、乙・丙水路の水路幅が下流にいくほど狭くなるような状況になつていること、平作川右岸の山林も開発されほとんど宅地化されたことは不知。その余は認める。

同4(三)(1)の平作川の流下能力は不知。同4(三)(2)のうち、甲水路が内径一〇〇〇ミリメートルの圧送管であることは認め、吉井川の流下能力が毎秒二ないし三立方メートルであつたこと、丙水路の計画流量が毎秒八・三六立方メートルであることは否認する。

5同5(一)は不知。同5(二)(1)のうち、本件の降雨が平作川の上流から先に降り出し、それが下流に移動したこと、それが満潮(午前六時一三分)と重なつたことは認め、その余は不知。同5(二)(2)のうち、平作川が午前六時から同七時にかけてA・B間から溢水したことは認め、その余は不知。同5(二)(3)のうち、吉井川及び甲・乙・丙の各水路がすべて平作川に流入しており、甲水路は全線にわたり暗渠、乙水路は開渠、丙水路はその一部が開渠で大部分が暗渠であること、当日午前六時から午前七時にかけて平作川が溢水して一気に水かさを増し、吉井川及び乙・丙水路も溢水し、これらの溢水流が渾然となつて、周辺の家屋の床上に浸水したことは認め、吉井川が当日午前四時三〇分以前に溢水していたこと、甲水路が午前六時ころ水圧でマンホールの蓋を押し上げられて水が吹き上げ溢水したこと、乙水路が溢水したのが午前五時過ぎであつたことは否認し、その余は不知。

同5(三)(1)のうち、同記載の原告らがA地区に居住していたこと、吉井川が溢水したことは認め、甲水路がマンホールの蓋を押し上げられて溢水したこと、その溢水状況は否認し、その余は不知。

同5(三)(2)のうち、同記載の原告らがB地区に居住していたこと、吉井川が溢水したことは認め、その余は不知。

同5(三)(3)のうち、別紙原告目録(一)41ないし50の原告らがC地区に居住していたこと、C地区が周囲よりも低くなつていることは認め、別紙原告目録(二)6ないし16の原告らがC地区に居住していたこと、C地区がA地区の溢水とほとんど同時に溢水し、一面の湖と化したことは不知。

同5(三)(4)のうち、同記載の原告らがD地区に居住していたこと、D地区はその周囲が一段高くなつていることは認め、その余は不知。

同5(三)(5)のうち、同記載の原告らがE地区に居住していたこと、平作川がA・B間から溢水し、吉井川及び乙・丙水路の溢水と渾然一体となつたことは認め、その余は不知。

同5(三)(6)のうち、同記載の原告らがF地区に居住していたこと、吉井川は勾配がほとんどないことは認め、その余は不知。

同5(三)(7)のうち、吉井川及び乙・丙水路が溢水したこと、平作川の日の出橋から夫婦橋に至る間の左岸にはパラペットが設置されていたが、C・D・E点が部分的に途切れていたことは認め、甲水路が溢水したことは否認する。その余は不知。

6同6(二)(1)のうち、平作川の夫婦橋直前の上流左岸はパラペットが設置されており、右パラペットにはC・D・Eの各点にそれぞれ二・六メートル、一メートル、四メートルの幅の切れ目があり、平作川の流水が阻害された場合にはそこかち溢水する危険性があつたことは認め、その余は不知。同6(二)(2)のうち、吉井川が原告らが居住する舟倉町の雨水を集めて平作川に注いでいること、その形状は不規則でしかも勾配がほとんどないこと、平作川との合流点において満潮の影響をかなり受けること、甲水路が長銀・辰巳団地の雨水・汚水を集中し、吉井川をサイフォン方式にくぐり抜けて平作川に注ぎ、その直径は内径一〇〇〇ミリメートルであつたこと、乙水路が京浜急行車両工場の堀の水を受けて平作川に注いでいること、丙水路が池田団地造成後、その雨水を排水して平作川に注いでいることは認め、吉井川は満潮の影響を受けるにもかかわらず水門が整備されていなかつたこと、大雨ごとに溢水する危険な水路であつたこと、吉井川は平作川流域の乱開発のため雨水流下の負担が増加し、流下能力が従来のままわずか毎秒二ないし三立方メートルしかなかつたこと、甲水路の直径が狭小でマンホールの蓋が開きやすかつたので、平作川の水位上昇により途中のマンホールから雨水が噴出する危険があつたこと、乙水路は勾配がほとんどなく、大雨の場合は絶えず溢水するなど危険な水路であつたこと、丙水路は勾配がほとんどなくて幅員が狭く、不自然に屈折し、満潮の影響を受け、大雨には流水が停滞してしまうような水路であつたが、池田団地の雨水を集中するようになつてからも、従来のまま使用されていたこと、吉井川及び甲・乙・丙水路は平作川の水位が上昇すると逆流していたことは否認し、その余は不知。

同6(三)(1)のうち、平作川流域の宅地造成がそれによりもたらされる影響を考慮することなく無計画に進められていつたことは否認する。久里浜工業団地、森崎団地、不入斗町団地、長銀団地、池田団地の開発年度及び開発面積が同記載のとおりであること、舟倉町に昭和一七年に京浜急行路線の鉄道敷が設置され、同一八年に国道が建設されたこと、それらにより舟倉町のうち平作川に寄つた部分があたかも水がめのような状態になつたこと、舟倉町の一部及び周辺に湿地、田等に盛土して工業団地が造成され、平作川流域に宅地開発が進み、山林が削られる等の地形変化が生じ、保水能力が低下したこと、それにより水田の遊水機能が消滅し、雨水の急速な河川集中をもたらしたこと、昭和三三年、同三六年に平作川が溢水したこと、治水工事について住居から被告横須賀市に陳情がなされたこと、同市が昭和四一年に追浜地区に都市下水路及びポンプ場の設置計画を立てて事業決定を得たこと、同市が舟倉地区の雨水・汚水の排水計画を昭和四八年に決定したことは認める。

同6(三)(2)ア・イ・ウは不知。同6(三)(2)エは争う。同6(三)(2)オのうち、被告横須賀市の市長が市議会において、昭和三九年、同四〇年、同四三年に水害対策に関し、神奈川県に対し、「お願い」や補助等を強く要望したことは認め、その余は不知。

同6(四)のうち、過去横須賀市内において、同市消防本部における測定値で、一時間降雨量四七ミリメートル(昭和四五年七月一日七時から八時)、三〇ミリメートル(昭和四八年一一月一〇日一〇時から一一時)、二四ミリメートル(昭和四七年七月一五日六時から七時)、一九ミリメートル(昭和四六年八月三一日七時から八時)を記録したこと、但し同消防本部には昭和四四年五月一五日からの測定値のみが存在し、それ以前の記録がないこと、本件水害後の昭和五〇年七月四日衣笠消防署で時間雨量四〇ミリメートル、浦賀出張所で五八・八ミリメートルを記録したことは認め、本件水害時の時間雨量に匹敵する降雨が昭和四四年以前にも相当あつたと推測されること、日雨量と時間雨量とが相関関係にあることは否認する。その余は不知。

同6(五)のうち、平作川のパラペットにはC・D・Eの各点にそれぞれ二・六メートル、一メートル、四メートルの切れ目があり、溢水の危険があつたことは認め、吉井川及び甲・乙・丙水路に形状、流下能力等から溢水の危険があり、それは当然予想されていたのに従前のまま放置されていたことは否認する。

7同7は否認する。

8同8(一)ないし(四)は争う。

99の(一)ないし(三)は争う。

三被告らの主張

(被告国及び同神奈川県)

1 河川管理責任の本質

河川は自然発生的な公共用物であつて、もともと自然の状態において公共の用に供されている物であり、したがつて、自然的原因による洪水の危険性を内包するものである。このように河川はそれ自体公共用物としての特殊性を有し、その管理は洪水等の災害発生の危険性をはらむものに対してなされるため、管理の瑕疵についても、通常は設置当初から安全性を具備すべく工作され、供用開始行為により公共の用に供される道路等の営造物と異なり、河川の通常備えるべき安全性の確保の観点、すなわち河川は治水事業により初めてその安全性が付与されるものであるという観点から考えることが必要であり、管理責任についてもこれを基盤として論じなければならない。したがつて、管理責任の存否、内容の判断にあたつては、治水事業について現実に存する諸制約は当然考慮されるべき要素となり、その諸制約のもとで到達しうる安全性確保の過渡的限界をもつてその責任の範囲としなければならない。

そして、莫大な費用を必要とする治水事業は、議会が国民生活上の他の諸要求との調整を図りつつ決定する予算のもとで、各河川について過去の水害の発生状況その他諸般の事情を総合勘案し、それぞれの河川についての改修等の必要性・緊急性を比較しつつ、その程度の高いものから逐次これを実施していくほかはないという制約、また、事業の実施にあたつては、降雨という自然現象はその規模において際限がなく、そのような自然現象に対応する技術上の限界もあり、更に、河川流域における急激な土地利用の変化等に治水の努力が追いついていけないなどの社会的制約があり、したがつて、すべての河川について通常予測し、かつ、回避しうるあらゆる水害を未然に防止するに足りる治水施設を完備するには相応の期間を必要とするという限界が存するほか、河川の管理においては、道路の管理における危険な区間の一時閉鎖等のような利用者(被害者)側の規制による危険回避の手段では賄えない災害が対象となる点も考慮されなければならない。

2 河川管理の限界

右に述べたとおり、河川はその本質において流水が氾濫して大きな被害をもたらす危険を内包し、しかもその範囲、程度はあらかじめ特定し得ないものであることから、その危険を完全に回避することは不可能なことであるが、被告国は、このように根絶し難い危険の内包する河川を管理し、河道拡大、護岸、放水路設置等の河川工事を行なうことによりその安全性を高める努力をしている。しかしながらこれは後述するように財政上、技術上等数多くの厳しい制約のもとで行うものであるから、おのずから一定の限界が存するのである。

以下、河川管理の限界について述べる。

(一) 自然現象による限界

河川の流水は、あくまで降雨などの自然現象によつて生ずるものであるから特に未解明な不確定要素が多く、かつ、その規模においても際限がない。ところが、河川管理はすべての災害を対象とすることはできないため、一定の規模の降雨を対象として管理していかざるを得ない。そのため、河川の有する機能を超えた異常な集中豪雨や異常な長雨による洪水及び異常な水の力等による河川施設の損壊等が発生することとなるが、これらの自然現象に対しては、もはや河川を管理することは不可能である。

(二) 財政的制約による限界

河川の安全性を高めるためには、前記のとおり河道拡大、護岸、放水路設置等の河川工事を行う必要があるところ、これには莫大な費用を必要とするのであり、しかも全国に存する数多い河川全体について同時に河川工事を実施してすべてを完成させることは到底不可能である。のみならず、住民の限られた租税負担のもとにおける国及び県の資金は、これら治水事業だけではなく、教育、社会福祉、保健医療、公害防止等の環境保全など数多くの他の行政需要にも応じなければならないものであるから、治水事業に投下し得る資金にはおのずから限界が存するのであつて、必要とされる治水事業であつても、到底短時日に達成し得るものではない。

このことは、神奈川県下の河川改修を例にとつてみても、県内の全河川を当面の目標であるところの時間雨量五〇ミリメートル程度に耐え得る河川とするための資金は昭和五五年時点では同年度河川改修費予算約二二〇億円の約二五倍に相当する五五〇〇億円を必要とすることからもうかがわれる(ちなみに、現在平作川改修の将来構想としている時間雨量九三ミリメートルに耐え得る程度に県内全河川を改修するとすれば、その額は極めて巨額なものとなることはいうまでもない。)。

したがつて、河川の安全確保についてのこのような財政上の制約は、河川管理の限界と考えられるべきものであり、また、この制約は単なる制約的条件というよりは河川の安全性確保の程度(治水の水準)を決定する極めて本質的な問題であるというべきである。

(三) 時間的制約による限界

河川改修等の工事は河川の安全性を高めるため一定の行政目標を設定して着手するのであるが、その水系全体を完成させるためには、河川工事そのものが大規模であること、工事の実施にあたつては、住民の生活上の諸権利を配慮しながら進行させなければならないこと、河川においては河川の流水機能を阻害することなく、かつ、流水が工事の支障とならないような工法により施行しなければならないこと、河川の河道拡大等を先行できない場合、例えば、鉄道橋、道路橋の架替え等の事業計画がある場合には、当該事業の改良計画に整合させなければならない必要性が存すること、災害直後には河川改修の必要性は受け入れられても、長期間災害が発生していない地域においては、河川改修の必要性が受け入れられにくいこと及び地域環境を変更させることなどから地域住民の賛同と協力が得られ難いことなどの各事由のため、河川改修等の工事はおのずからその完了までに長年月を要することになる。更に、改修途上なのに流域の開発の方が予想をはるかに上回つて行われた場合には流域の変化に対応させるため計画を改訂して改修を行わなければならないなど河川工事の進行方法等からも、河川の安全性を高めることは短時日に成し得るものではない。

したがつて、その完成までの期間においてかなりの洪水に遭遇することは当然に予期されることであるから、その時点における河川の安全度を超える洪水に遭遇すれば当然のことながら溢水などの被害が発生することとなり、その河川について流水を安全に流下させる機能を必ずしも十分に保たせることができないことになる。

(四) 技術上の限界

河川の安全性を高めていくうえで降雨などの自然現象を予測して対応する技術的手法や、流域の開発等社会現象を予測して対応することに限界があることから生ずる技術上の困難性がある。すなわち、災害の原因となる降雨について、いつ、どこで、どの程度の降雨が発生するかという具体的予測が可能であれば最も効率のよい治水投資が可能であるが、現在の気象科学においても、それを予測することは不可能であるから、一定規模の降雨を対象として河川改修計画を立案し、各河川を全体として安全性を引き上げていかなければならず、その場合に改修途上においてその河川の有する機能を超えた降雨が発生したならば、当然のことながら溢水等が生じてしまうのもやむを得ないところである。

(五) 社会的制約による限界

昭和三〇年代から同四〇年代半ばに至るわが国の著しい経済成長によつて、人口・資産が急激に集中し、同四〇年、同四五年、同五〇年の国勢調査における人口動態によれば、都市人口の総人口に対する比率は、同四〇年の六八・一パーセントに対し、同四五年は七二・二パーセント、同五〇年は七五・九パーセントと上昇し、人口の都市への集中は顕著なものがある。このような都市成長の速度は、世界的にも全く例をみないものであるが、この急激な都市集中による都市周辺の宅地開発はすさまじく、平作川流域においても上流から進展していた都市化現象は中流部にも及び、特に、中流部沿川では同三五年から横須賀市の都市計画事業としての土地区画整理事業が行われ、約九四ヘクタールにも及ぶ宅地開発がなされた。右のような河川流域の急激な土地利用の変化のため、保水機能の低下、地下浸透の減少、雨水流下時間の短縮等、流出機構の変化がもたらされたが、この状況変化の速度が余り早いため、これに対応する河川の整備は治水のたゆまぬ努力にもかかわらずこれに追いついていくのは到底困難である。

また、河川の安全性を高めるため護岸整備、浚渫、堤防嵩上げ、橋梁改築などを施工するに伴い、漁業権者、周辺住民等との補償問題を含む交渉が必要になるが、その交渉には長期間を必要とする。

3 改修途上における河川管理責任

河川の管理についての瑕疵の有無を判断する基準については昭和五九年一月二六日最高裁判決に判示されているとおり、(1)過去に発生した水害の規模、発生の頻度、発生原因、被害の性質、降雨状況、流域の地形その他の自然的条件、土地の利用状況その他の社会的条件、改修を要する緊急性の有無及びその程度等諸般の事情を総合的に考慮し、前記諸制約のもとでの同種・同規模の河川の管理の一般水準及び社会通念に照らして是認しうる安全性を備えていると認められるかどうかを基準として判断すべきであること、また、(2)既に改修計画が定められ、これに基づいて現に改修中である河川については、その後の事情の変動により当該河川の未改修部分につき水害発生の危険性が特に顕著となり、当初の計画の時期を繰り上げ、又は工事の順序を変更するなどして早期の改修工事を施行しなければならないと認めるべき特段の事由が生じない限り、右部分につき改修がいまだ行われていないとの一事をもつて河川管理に瑕疵があるとすることはできないと解すべきである。

4 河川改修計画及び河川改修について

(一) 総論

(1) 河川改修計画及び河川改修の進め方

被告国及び神奈川県は、河川改修について、その改修目標となる安全性は前記の諸制約から必然的に限界が生じるので、実際の河川改修においては、改修規模の目標に限界を設定し、一定の規模以下の洪水に限つてこれを安全に流下し得る能力を確保することを目的として河川改修計画を策定している。なお、計画の立案順序としては、洪水防御計画の基本となる洪水(以下、「基本高水」という。)を定め、その洪水の処理方法を検討し河道の改修区間の主要地点における高水流量を設定し、その計画高水流量を流下させる河道などの計画諸元を設定し、更に、砂防計画、利水計画など他の観点からの河川の計画と総合的な調整を行い、改修計画案については、事業費、経済効果などの観点からも代替案などと比較検討をし、最終的な計画を作成することとしている。

右の基本高水の決定に当たつては、計画規模の決定が必要であり、計画の規模は一般には降雨量の年超過確率で評価するものとし、河川の重要度を重視するとともに、既往洪水による被害の実態、経済効果等を総合的に考慮して決めるが、大河川においては一〇〇年に一回から二〇〇年に一回の降雨規模、中小河川においては三〇年に一回から一〇〇年に一回の降雨規模を設定している。しかしながら、直ちにこの計画規模で河川改修工事を実施するには資金的に限界があるから、当面の達成目標を、流域面積二〇〇平方キロメートル以上の主要大河川については各河川で戦後三〇年間に発生した最大の洪水に耐えうるように、また、その他の早期に改修を必要とする中小河川については、時間雨量五〇ミリメートル相当(年超過確率で、五年ないし一〇年に一回程度)の降雨を暫定の計画規模としている。

ところで、被告国は、明治元年淀川に治河使を設置したのを初めとして、主要な河川について直轄事業を施行してきたが、同二九年に旧河川法を制定し近代的河川行政としての基礎を固め治水事業に積極的に取り組んできた。更に昭和七年に至り中小河川改修補助事業の制度を創設し、現在まで国直轄事業及び国庫補助事業による治水事業を推進し、特に戦後、戦争による国土の荒廃に加えて、毎年のように大型台風による甚大な災害が発生し、水害による被害が激増したため、同三五年に治水事業を緊急かつ計画的に実施することを目的として治山治水緊急措置法を制定し、同年以降同四九年に至るまで、国の一般会計予算の三・四パーセント(年平均)、公共事業費予算の一八・三パーセント(年平均)の投資規模をもつて、本格的な事業を推進してきたのである。そして、明治八年から昭和四九年までの治水投資累積額は、災害復旧事業費を含み約一八兆円(昭和五〇年価格換算)にも達しているのである。また、昭和三〇年代後半からの著しい我が国経済の高度成長に伴い産業構造が変革し、三大都市圏を中心に人口・資産が急激に都市に集中して、全国的に都市化現象が進展した結果、都市河川等の災害が激増することとなつたため都市河川を含む中小河川対策が重点施策として実施され、昭和四六年度を境として中小河川整備のための国庫補助事業費は大河川の整備を中心とする直轄事業費を上回るものとなつている。

(2) 神奈川県における治水事業

神奈川県においては、県知事が管理している河川は、昭和五四年度末において一一一河川で、その延長は約七五〇キロメートルであるが、このうち、改修を必要とする河川は約八〇河川で、その要改修延長は五三〇キロメートルである。現在実施している改修計画に対する改修率は、昭和五四年度末では要改修延長五三〇キロメートルのうち約三四パーセントであり、約三五〇キロメートルがなお残されている。このため、年超過確率で五年ないし一〇年に一回の降雨があると、右改修を必要としている約八〇河川の大部分の河川では溢水による浸水被害がもたらされる危険があり、被告国及び神奈川県は人命、資産を洪水被害から守り、地域の保全と民生の安定のため、莫大な費用をかけ平作川を含む各河川の改修に努力しているのである。すなわち、昭和二〇年の終戦直後から同二四年までの間は、戦争によつて国土が荒廃していたうえ、大型台風が連続して日本を直撃したために、神奈川県下も多大な被害を受け、当時の経済事情のもとでは、災害復旧工事を主体とせざるを得なかつたけれども、河川の治水機能の向上を図ることを目的として、同二二年には、中津川と境川を中小河川改修事業として、また同二三年には狩川、内川を災害復旧助成事業として、それぞれ改修区間を定めて改修に着手した。この時期、平作川は戦前に実施された改修工事により一応の整備のなされた河川となつていたが、県内他河川と同様災害復旧を主体とし、改修対象の河川には属しなかつた。

昭和二五年から同二九年までの五年間には、同二六年に神奈川県の単独費による河川改修事業が、また、同七二年に国の補助事業として河川局部改良事業がそれぞれ創設されるなど、治水機能を高める改修事業を推進するという機運がでてきたが、この期間に具体的に河川改修の推進に着手した河川は、中小河川改修事業で、酒匂川、鶴見川、河川局部改良事業で境川をはじめ五河川、河川改修事業で平作川をはじめ七河川であり、それぞれ改修を推進し、平作川については同二六年に河川改修に着手し、以後改修を進め、堤防維持、災害復旧等に取組んだ。

昭和三〇年から同三四年までの五年間は、神奈川県は河川の治水機能を高めるための改修に積極的に取り組み、帷子川を災害復旧助成事業として、また、酒匂川を河川等災害関連事業として、それぞれ改修に緊急着手したのをはじめとして、帷子川を中小河川改修事業として山王川をはじめ四河川を河川局部改良事業として、境川をはじめ六河川を河川改修事業としてそれぞれ改修区間を定めて改修を進めたが、平作川については、昭和二六年改修に着手以来引続き河川改修を続行するとともに、流路整備、維持工事、災害復旧工事等と併せて護岸整備を実施した。

昭和三五年から同三九年までの五年間は、同三三年に狩野川台風、同三四年に伊勢湾台風と大型台風の直撃による激甚な災害が連年発生したことに伴い、同三五年に治山治水緊急措置法が制定され、これに基づいて治水事業一〇か年計画が閣議決定され、本格的な改修事業の推進の途が更に開かれたが、経済の高度成長により、首都圏の中心部に位置する神奈川県下においては、各地に都市化現象が進行し、河川周辺の浸水常襲地帯である低地域にまで住宅等が進出するに至り、年々発生する災害は一層増加し、同三六年六月の梅雨前線豪雨では、大岡川、境川、田越川、柏尾川等が氾濫し、この同三六年災害に対して、同年、大岡川を災害復旧助成事業として、境川、引地川を河川等災害関連事業として、更に、鶴見川、田越川、渋田川を中小河川改修事業として、恩田川をはじめ七河川を小規模河川改修事業として、平作川をはじめ五河川を河川局部改良事業として、鶴見川をはじめ三河川を河川改修事業として、それぞれ右各事業としての河川改修に着手した。したがつて、平作川についてはこの時期において右のとおり河川局部改良事業に着手したのをはじめ、堤防維持、流路整備等の工事を実施し、流下能力の拡大を図つた。

昭和四〇年から同四四年までの五年間は、社会経済の進展に伴う沿岸流域の開発状況、各種用水の需要の増大等に対応するため、従来の区間主義の河川管理体系を改め水系を一貫とした管理体系とする必要から同四〇年に新河川法が施行され、前述の治山治水緊急措置法に基づく第二次治水事業五か年計画をもとに、発展する経済社会の状況、災害の実態などを反映させて、河川改修をより一層強力に推進した。しかし、この時期においても、昭和四一年の台風四号により鶴見川、引地川、渋田川等が各所で破堤、溢水し、甚大な被害がもたらされたが、平作川の溢水による被害はなかつた。この昭和四一年災害に対処するために、同年、鶴見川、引地川、渋田川を災害復旧助成事業として改修に着手するとともに、同四三年には、早淵川をはじめ四河川を中小河川改修事業として、更には、干の川をはじめ四河川を小規模河川改修事業として、三沢川をはじめ四河川を河川局部改良事業として、引地川をはじめ六河川を河川改修事業として、小出川を河川等災害関連事業として、それぞれ改修に着手した。この時期には、平作川については昭和四一年に新たに小規模河川改修事業に着手するとともに、従前の河川局部改良事業、河川改修事業と併せて改修を促進した。

昭和四五年から同四八年までの五年間は、これまでの河川改修の推進により治水機能が向上し、洪水氾濫面積は減少してきたが、反面、河川沿いの低地域へ人口・資産が引続き集中してきたために、水害は依然として減少する様子は見せず、いわゆる都市水害への対応策として、同四五年、従来の国及び県のみの河川改修に対する費用負担に加え、政令指定都市等(東京都区部及び地方自治法二五二条の一九による指定都市をいう。)の費用負担を考慮した都市小河川改修制度が創設され、同年から同四八年までに横浜市、川崎市内の早淵川等一四河川がこの制度による改修に着手された。また、金目川、小出川を中小河川改修事業として山王川、不動川を小規模河川改修事業として、中津川はじめ三河川を河川局部改良事業として、滑川をはじめ四河川を河川改修事業として、境川をはじめ四河川を災害復旧助成事業として、板戸川をはじめ四河川を河川等災害関連事業としてそれぞれ改修に着手した。この時期の平作川には溢水被害はなかつたが、前記三事業による改修を促進し、河口部からの浚渫工事も実施した。

以上のような治水努力にもかかわらず全国の改修を必要としている各河川について、それぞれに定められている改修計画の目標、すなわち大河川にあつては一〇〇年ないし二〇〇年に一回程度、中小河川にあつては三〇年ないし一〇〇年に一回程度、それぞれ発生する洪水による災害を防止するには、第六次治水事業五か年計画策定時に試算したところによれば、昭和五七年度以降、一七〇兆円を要するとみられるのである。

このため、国の財政上の理由からそれぞれの河川について定められた改修計画に基づき一挙に整備することは不可能であるため、治水投資の当面の行政目標として、大河川にあつては戦後最大洪水を対象に再度災害を防止すべく整備し、その他の早期に改修を必要とする中小河川にあつては時間雨量五〇ミリメートルの降雨(年超過確率五年ないし一〇年に一回)による被害を防止すべく整備しようとしているが、なおその整備率は、昭和五六年度末現在大河川では五八パーセント、中小河川では一八パーセントに過ぎず、すべての河川についてそれぞれの改修計画で定められた安全度まで一挙に引き上げることは不可能であるから、被告国及び神奈川県は、各河川について過去に発生した水害の規模、頻度、発生原因、被害の性質等のほか、降雨状況、流域の自然的条件及び開発その地土地利用の状況、各河川の安全度の均衡等の諸事情を総合的に勘案し、それぞれの河川についての改修等の必要性、緊急性を比較しつつ、その程度の高いものから段階的に河川改修を実施しているのである。

ところで、神奈川県知事が管理している一一一河川のうち、改修を必要とする河川は約八〇河川で、その要改修延長は約五三〇キロメートルであるが、これらの河川を改修する費用は、例えば年超過確率で一〇〇年に一回の降雨に耐え得るよう改修するには数兆円を要するという膨大なものとなるので、神奈川県としては財政等種々の制約がある現在、中小河川については年超過確率で五年ないし一〇年に一回の降雨に耐え得ることを当面の改修目標として河川改修を実施している段階であり、現在実施している改修計画に対する改修率は、昭和五四年度末で要改修延長五三〇キロメートルのうち約三四パーセントであるが、これを完了するまでに残された延長約三五〇キロメートルについて被告国及び同神奈川県が投入しなければならない河川改修費は、同五五年度の試算では約五五〇〇億年にも及び、この金額は、同年度県予算における河川改修費(改修率に関係するものであつて維持費を除く。)約二二〇億円に対して約二五倍という巨費であり、今日のように我が国全体の財政の見通しが同四〇年代のような高度な伸びを期待できない状況においては、現在実施している改修計画の完了にも相当長期の年月を要することが予想され、しかも、この改修計画が達成されたとしても前述のとおり五年ないし一〇年に一回の降雨程度にしか耐え得ないものであり、引き続き更に安全度の高い改修計画を実施していく必要がある。

また、被告神奈川県の昭和五五年度一般会計予算は、約八五〇〇億円であり、人件費が約四七パーセント(教育職員三〇パーセント、警察職員九パーセント、一般職員八パーセント)であり、これに既設施設の維持運営費、法令に基づく義務費、県単義務的経費を加えたいわゆる義務的な費用が約六二パーセントを占め、公共事業に要する費用は、公共事業費と建設的事業費とを合わせた約一七パーセント(約一五五〇億円)であるが、このうちの主なものは、高等学校建設費、道路橋梁費、下水道費、河川費(河川改修費及び河川維持費)、公営住宅建設費などであり、最も多いのは高等学校建設費で実に四〇〇億円を超える巨費となつており、河川費は、高等学校建設費に次いで多く、約二五〇億円であり、公共事業に要する費用のうちの約一六パーセントを占めている。ちなみに前述の他の費用については、道路橋梁費約二一〇億円(約一四パーセント)、下水道費約一六〇億円(約一一パーセント)、公営住宅建設費約一五〇億円(約一〇パーセント)となつている。このように河川費は、他の公共事業に要する費用との比較においても、かなりの割合を占めており、決して過少なものとはいえず、まして被告神奈川県における河川改修に要する費用は、種々の行政需要のみならず、経済動向その他様々の要因が総合的に判断された結果であるから、単に河川改修に対する必要性のみでは河川改修に要する費用の当・不当を論じ得ないのであつて、この点はいわゆる政治的責務に属する。

(二) 平作川の河川改修計画

平作川は戦前に一応の整備がなされていたため、戦後から昭和三八年度までは災害復旧工事、堤防の維持保全のための部分的な護岸工事、あるいは治水機能を維持向上させるための浚渫工事を実施してきたが、同三六年の集中豪雨を契機として、また、流域の一部について土地利用状況が都市化へと動きをみせはじめていたことから、計画的に改修工事を進めることとして、同三九年度に河川改修計画を策定したが、この改修計画ではその基本となる計画高水流量を、時間雨量七〇・〇ミリメートルを基準として算定し、河口において毎秒三〇〇立方メートルとし、河道処理方式で改修することとした。しかし、流下能力が極めて低く危険度の大きい区間が多く、早急に改修する必要があつたことと併せ、右計画に基づいて平作川全体を一挙に改修するためには、昭和三九年度の被告神奈川県の年間河川予算額の約二倍にも相当する莫大な予算(昭和三九年度単価で約三四億円)と長年月を要することが明らかであつたので、とりあえず段階的改修方式により安全性を高めることとし、暫定改修計画として海上自衛隊横須賀地方総監部観測所(以下、「横須賀観測所」という。)における過去最大の同三六年六月二八日の時間雨量五二・八ミリメートルに対処できるように、時間雨量五七・三ミリメートルを基準として流出量を算定し、河口における計画高水流量を毎秒一八〇立方メートルとした。

その後、昭和四五年ころに至り、神奈川県下各地における急激な都市化の進展等にかんがみ、県下各河川の改修計画の全体的見直しを行う必要に迫られ、その一環として、本件平作川についても流域の都市化状況及び同四三年六月一六日に既往最大時間雨量五八・六ミリメートルを記録したことを考慮し、同三九年度に策定した行政目標たる河川改修計画の見直しを同四六年度において行つた。すなわち、昭和三九年度に策定された改修計画における河口での計画高水流量毎秒三〇〇立方メートルに対して、同四六年度の改修計画においては、時間雨量九三・二ミリメートルを基準として算定した毎秒五二〇立方メートルを計画対象の洪水の流量として平作川の安全性を更に高めることとしたのであるが、平作川本川において毎秒五二〇立方メートルを安全に流下させるように河道を拡幅又は築堤して確保することは土地利用状況等からみて困難であるので、流水の一部を上流の黄金橋付近から分水して海へ直接流下させることにより、河口における流量を毎秒一〇〇立方メートル低減させ計画高水流量を毎秒四二〇立方メートルとすることにした。しかし、この計画を達成するためには、莫大な予算と長年月を要するため一挙に改修することは不可能であるので、暫定改修計画として平作川本川の河道改修工事を優先して施工することとし、河口における計画高水流量を時間雨量七四・一ミリメートルを基準にして算出した毎秒三一〇立方メートルとした。

(三) 平作川の治水事業の経緯

(1) 戦前における改修工事の実施

平作川は、昭和六年六月一日準用河川の認定を受け、被告国の事業として、現在の河口から夫婦橋に至るまでの間を、地震により荒廃した湿地帯の整備、船の出入り等の利便を図り「澪筋」の設置等の工事を行うことにより、ほぼ現況の平作川の形態となつたが、その際、現在の夫婦橋の東側の浜に存置した漁業組合の基地は現在の位置に新たに設置された。更にその後、夫婦橋下流部分の完成に続いて現夫婦橋から五郎橋の間につき浦賀町、衣笠村、久里浜村及び横須賀市間において、横須賀市外三か町村組合を結成し、昭和七年度から同九年度まで河川改修工事を実施した。また、昭和一〇年度から同一一年度までは、五郎橋から上流約五二〇メートル(現在の真崎橋上流約一八〇メートル付近)まで工事を完了し、その後引き続き田中橋までの改修工事を実施した。

(2) 戦後における改修工事の実施

(昭和二五年度から同三八年度まで)

平作川は戦前において既に一応の整備がされたので、この時期は災害復旧工事、既に整備された堤防の維持保全のための部分的な護岸工事、あるいは治水機能を維持向上させるための浚渫工事を主体に、市街地を形成しつつあつた地域に重点的に実施した。すなわち、下流部の河口から湘南橋付近において、護岸工一〇九三メートルと一三五平方メートル、パラペット工五〇三メートル、浚渫工九九七二立方メートルと一〇〇メートル、中流部の湘南橋付近から東亜橋付近において護岸工二六七メートルと一九六立方メートル、盛土工五二立方メートル、パラペット工一九二メートル、浚渫工一四九五立方メートルと六八〇メートル、上流部の東亜橋付近から河川管理区間上流端において護岸工三三八メートル等を総工費約二億二七〇〇万円(昭和四九年度価格換算)で実施した。

(昭和三九年度から同四九年度まで)

この時期は、昭和三六年六月に平作川上流部の市街地を中心に被害が発生したこと、更に流域の一部では土地利用状況が都市化へと移り始めたことなどから前記のように河川改修計画を策定して計画的に改修工事を推進することとしたが、実施にあたつて平作川全体を一挙に改修することは莫大な予算と長年月を要するので、河川全体をみて、局部的な狭さく部の有無、沿川の土地利用の状況及びその将来の見通し、過去の災害の発生状況等を総合的に勘案して、緊急に改修を必要とする区間から進めていくこととした。そして、上流部の改修工事を優先する場合は、その地区の氾濫は防止されるが、そのために未改修区間の下流部において相対的に安全度を低下せしめることのないように下流部の治水機能を配慮して次のとおり実施した。

ア 下流部(河口から湘南橋まで)

下流部においては、平作川全体からみて局部的な狭さく部はなく、河口部から日の出橋付近までの沿川は人家や学校等が存在していたため一応の護岸整備もなされていたこと、その上流の湘南橋までの区間沿川は人家が存在していたものの大部分は水田や低湿地帯であつたことから、計画的な護岸整備の必要はなかつた。しかし、平作川流域については徐々にではあるが人家が増えていくことが予想されたため、平作川全体の治水機能の向上を目的とする計画的な浚渫工事を河口から順次実施することとした。

イ 中流部(湘南橋から東亜橋まで)

中流部においては、五郎橋地点は流下能力が毎秒約三〇立方メートル、国鉄横須賀線平作川橋梁地点は流下能力が約四九立方メートルであつて平作川全体からみると局部的な狭さく部であり、水害発生の危険度が大きいため、これらの橋梁を改修計画に合わせて改築することとしたが、その他の橋梁(根岸橋等)については、平作川全体からみて局部的な狭さく部とはなつていなかつたので将来改築工事を実施することとした。また、上流から進展していた都市化現象は真崎橋付近にも及んできており、湘南橋から国鉄横須賀線平作川橋梁付近沿川は、昭和三五年から横須賀市の都市計画事業として約九四ヘクタールにわたる平作川沿川の地域を開発して土地の高度利用を図り新市街地を建設する公郷根岸土地区画整理事業(昭和五〇年完成)が始まっていたため、計画的かつ急激な人家の進出が予想され、このため、従来の土堤では決壊した場合河岸に接する人家に直接影響を及ぼすことから、護岸の整備を実施することとした。

このように、中流部においては、平作川全体からみて流下能力が低く局部的な狭さく部となつている橋梁の改築工事と、計画的な市街化の進展による人家の進出に備え堤防決壊を防止することを目的とする護岸整備を実施することとし、護岸整備にあたつては森崎橋付近から国鉄横須賀線平作川橋梁までの区間について実施することとしたが、護岸は現況河道幅に沿つて設置し、その基礎は手戻りの生じないよう将来計画に合わせて深く設置することにし、河床は下流へ影響を及ぼすことのないよう掘削せず現況河床のままとした。

ウ 上流部(東亜橋から管理区間上流端まで)

上流部の旧田中橋付近から黄金橋付近までの沿川は、国鉄横須賀線衣笠駅周辺の商店街として発展し、人家が密集しており、昭和三六年六月の梅雨前線豪雨で災害が発生していたが、旧田中橋から黄金橋までの区間の河道は流下能力が毎秒約三九立方メートルと低く、災害が発生すれば沿川人家に大きな被害を及ぼすことから、流下の支障となる橋梁の改築工事と、流下能力の拡大を目的とした護岸整備を右区間について実施することとした。なお、上流部の改修実施後の流下能力がA・B間の流下能力より小さいことを確認したうえで実施したものである。

(3) 昭和三九年度から同四九年度までに実施した工事内容について

ア 下流部

下流部にあつては、前述のとおり流下能力を拡大するため、河口から五郎橋付近までの区間については計画的な浚渫工事を実施することとし、昭和四六年度から同四九年度までに河口部から日の出橋上流までの区間について約三万四八〇〇立方メートルに及ぶ浚渫工事を実施した。このほか、昭和三九年度から同四九年度までに河道拡大のための堆積土取除き工一一五〇メートル、堤防の維持保全のための護岸工事三八八・六メートル等を実施した。なお、下流部における総工費は約二億六九〇万円(昭和四九年度価格換算。以下総工費については同じ。)であつた。

この結果、梅田橋付近の流下能力は、昭和四九年には毎秒約八〇立方メートルとなり、夫婦橋付近の流下能力は、同年には約一八〇立方メートルになつた。

イ 中流部

中流部にあつては、まず流下能力が毎秒約三〇立方メートルと最もネックとなつていた五郎橋について、道路管理者、警察等の関係各機関との調整、橋梁が高くなることから生ずる取付道路嵩上げに伴う地元住民との補償交渉等がすべて整つた昭和四四年度から同四六年度に改築工事を実施し、次に、流下能力が約四九立方メートルと五郎橋に次ぐネックとなつていた国鉄横須賀線平作川橋梁について、関係機関との調整後同四六年度から同四七年度に改築工事を実施し、それぞれ狭さく部を解消した。更に、沿川への人家の進出に備え堤防決壊を防止することを目的とした護岸整備を昭和四一年度から同四九年度までに一六〇八・二メートル、また、右護岸整備区間外についても同三九年度から同四九年度までに堤防の維持保全を目的として部分的な護岸工事五八メートル等を実施した。

なお、中流部における総工費は約八億二〇〇〇万円であつた。この結果、五郎橋、国鉄横須賀線平作川橋梁の狭さく部が解消されたため、中流部の流下能力は毎秒約六五立方メートルとなつた。

ウ 上流部

上流部にあつては流下能力の拡大を目的とした護岸整備を昭和三九年度から同四九年度までに九九八・八メートルと、支障となる栄橋、舞台橋の改築工事、更に、右護岸整備区間外についても堤防の維持保全を目的として部分的な護岸工事五七九・二メートル等を実施した。

なお、上流部における総工費は約二億六二〇〇万円であつた。この結果、昭和四九年における流下能力は毎秒約五〇立方メートルになつた。

(四) 平作川に対する被告神奈川県の投入額について

(1) 被告神奈川県は、昭和四〇年から同四九年までの一〇年間にわたり、別表(二)のとおり、県下の河川に予算を投入した。

大河川である鶴見川、境川、相模川及び酒匂川についてはその流域が非常に大きいことから、一度破堤すればその氾濫は広範囲に及び、多くの人命、財産が失なわれるばかりでなく、県下の社会、経済活動に図り知れない影響を及ぼすことが必至であることが容易に予想され、県土保全上、また県民の社会経済上特に重要な河川であるからである。したがって、これらの大河川については昭和四〇年以降も多大な費用を投入して改修を促進した。

また、東部河川のうち、横浜・川崎市内を流れる大岡川、柏尾川、帷子川等の二六河川については、その流域が県下の経済、社会、文化の中枢部、また、我が国有数の工業地帯である京浜工業地帯として発展し、特に同三〇年代後半の我が国の高度経済成長期以降都市化の急激な進展により、保水機能の低下、地下浸透の減少、雨水流下時間の短縮等流出機構が変化し、沿岸の人口・資産の集中と相まつて、水害の被害が増大する傾向が顕著となつたため、首都圏における大都市の重要性にかんがみ、水害の軽減と再度災害の防止を図る目的で、県内の重点的な河川として改修を推進したのである。横浜・川崎市を除く東都河川である引地川、目久尻川等一六河川については、その流域が大都市の周辺部として、また、首都圏のベッドタウンとして都市化が進展してきたもので、浸水被害も発生するようになつてきており、横浜・川崎市内河川に次ぐものとして改修を実施した。

西部河川は箱根、丹沢の山岳部を水源とする急流河川が多く、宅地開発の進展は東部河川に比して急激ではないが、低廉な土地を求めて都市化現象が西部へと広がつているため、近年農地の冠水被害も多くなり改修の促進に努めてきたものである。

なお、平作川については一河川当たりの費用投入額は横浜・川崎の各市内河川と同レベルにあり、本件水害発生まで過去一三年間にわたつて洪水氾濫がなかつたことを考えると、県内河川の中でその投入額は何ら遜色のないものである。

(2) 次に平作川と同規模の流域面積(二五平方キロメートルないし三五平方キロメートル)をもつ県内各河川について、昭和四〇年度から同四九年度までの総事業費と過去の水害による被害額及び流域内市町村の人口密度を比較すると別表(三)のとおりであり、これによれば平作川と同規模の各河川について過去に投じられた総事業費は、平作川を含め、過去における水害の実績、流域内の都市化の進展の度合とほぼ均整のとれたものとなつており、平作川に対する費用投入においても特段の不合理な点はみられない。ちなみに、同表において平作川以上に費用が投じられている河川についてみると、次のとおりである。大岡川、早淵川については過去の被害額は平作川の七ないし一一倍となつており、両河川とも横浜市内を流れていることから、流域内市区町村の人口密度も高く、一度洪水に見舞われると甚大な被害が発生することは、右被害額からみても当然予想されることから、投資額はともに平作川より大きいものとなつており、恩田川については流域内市区町村の人口密度は平作川のそれよりも小さいが、過去の水害による被害額は、平作川の約五倍であり、また、緑区(横浜市)は、首都圏のベッドタウンとして急激な人口の伸びが十分予想されたことから、投資額は大岡川、早淵川に次ぐものとなつている。また平瀬川についてみると、過去の水害による被害額は平作川の約三分の一であるが、流域内市区町村の人口密度が高く、また、今後も都市化の進展が十分予想されることから、平作川とほぼ同等の費用の投入を行なつてきたものである。したがつて、平作川に投じた額は、県内における同規模な河川と比べても妥当なものであるといえる。

(3) 以上のとおり、神奈川県において河川管理者は、人命、資産を洪水被害から守り、地域の保全と民生の安定のため、県内各河川の自然的・社会的状況、過去の水害の規模、頻度、改修の必要性、緊急性等諸般の事情を総合的に考慮し、限られた予算の中で各河川への治水事業費の配分を行つてきたのであり、これに基づいてなされた神奈川県における治水事業は、平作川を含め県内河川管理の一般水準として社会通念に照らして是認しうるものというべきである。

(五) 平作川の治水事業の妥当性

(1) 以上のとおり、平作川についての治水事業の費用投入の状況は、一河川当たりの投入額が県内河川の中でも横浜・川崎の各市内河川と同レベルであつて何ら遜色なく、また、右投入額は県内の同規模河川と比較しても妥当なものであることは明らかであり、平作川の治水事業については全川を一挙に整備することは莫大な予算と長年月を要するので、平作川全体をみて局部的な狭さく部の有無、沿川の土地利用状況及びその将来の見通し、過去の災害発生の状況等を総合的に勘案し、緊急に整備を必要とする区間から実施してきたのであり極めて妥当なものであつた。

すなわち、沿川の土地利用状況についてみると、下流部における市街化率は昭和三七年には五七パーセントであつたものが、同四三年には五八パーセント、同四五年には六〇パーセントと八年間にわずか三パーセントの増加に過ぎず、その後同四八年には七二パーセントとなつたものの、上、中流部に比較すれば市街化の進展は著しく遅れていた。つまり、上流部においては、市街化率は昭和三七年に既に一〇〇パーセントとなつており、中流部においては同三七年に四三パーセントに過ぎなかつたものが、同四三年には計画的な市街化に伴い九五パーセントにも達し、同四五年には一〇〇パーセントとなつたのである。

このような状況のもとに、下流部においては局部的な狭さく部は存在しなかつたが、流下能力を拡大するための浚渫工事等、中流部においては五郎橋等の平作川全体からみて局部的な狭さく部となつている橋梁の改築工事と、堤防の決壊を防止するための護岸整備等、上流部においては、流下能力が低く危険度の大きい狭さく部について流下能力を拡大するため橋梁架替え工事及び護岸整備等を実施したのであり、これらの改修工事は下流に影響を及ぼすことのないよう全川の安全度のバランスをみて実施し、改修途上における平作川全体の治水機能を高めたのである。すなわち、横須賀観測所で昭和四八年一一月に最大時間降雨量四六・五ミリメートルを記録したが、この降雨にも溢水することがなかつたことからみてもその効果を十分発揮することができたことが明らかである。

(2) 既に述べてきたとおり、被告国及び神奈川県は人命・資産を洪水被害から守り、地域の保全と民生の安定のため、県内各河川の重要度、過去の水害の規模等諸般の事情を総合的に考慮し、限られた予算の中で、各河川について改修工事を行つてきたのであり、この点は県内の各河川、すなわち、県内の重点的な河川として改修をすすめてきた横浜・川崎の各市内河川と、平作川とを比較した場合、本格的な河川改修を推進することとなつた昭和四〇年から同四九年までの一〇年間の各投資額は同レベルとみることができ、平作川について何ら遜色はなかった。また、前記一〇年間における総費用と、過去の水害による被害額及び流域内の開発状況を示す一つの指標としての流域内市区町村の人口密度との関係を、平作川についてこれと同規模の流域面積(二五平方キロメートルないし三五平方キロメートル)をもつ県内の他の各河川とを比較してみた場合にも平作川に投じられてきた総費用は、過去における水害の実績、流域内の都市化の進展の度合いとほぼ均整のとれた妥当なものであつたことは明らかである。

平作川全体については、前述したとおり、緊急に改修を必要とするところから工事を進め、全体的に安全度を高めてきたのであり、原告らは、その居住する地域については何ら改修工事がなされなかつたと主張するが、治水の安全度を高める工事として計画的に浚渫工事を行つてきたことは明らかである。

ところで、原告らの居住する地域における河川改修工事を他の上、中流部よりも優先して行わねばならない特段の事由があつたか否かについてであるが、上流部では既に人家が密集しており、災害が発生すれば沿川の人家に大きな被害を及ぼす状況にあり、また、中流部においては計画的な市街化による人家の進出があり、かつ、局部的な狭さく部分が存在していたのに比較して原告らの居住する下流部の区域は、かつては低湿地で、水田として耕作が営まれていたこともあつて上、中流部よりも市街化が遅れており、また、局部的な狭さく部は存在しなかつたことから、本件水害前一三年間にわたり災害がなかつたことに照らしても、早期に他地域に先がけて改修工事を行うべき特段の事由は存在しなかつたのである。なお、本件水害時平作川で実施していた改修計画において、原告らの居住する区域に係る河川改修を完了するためには、水害後湘南橋から河口までの約三六〇〇メートルの区間において被告らが実施した事業を施行する必要があつたが、これを実施するために要した費用は約五二億円にも達する巨費であり、この額は、昭和四〇年度から同四九年度までの一〇か年間において平作川全体に投入された総費用約一三億円に比較してほぼ四倍に相当する額であり、先に述べたように平作川に投入されてきた費用の妥当性に照らしてみれば、本件水害発生前において、上、中流部よりも市街化が遅れており、また局部的な狭さく部が存していなかつた下流部にこのような巨費を投入し河川改修を実施することについて社会的な合意が到底得られないことは明らかである。

(3) 以上のように、平作川の治水事業は河川管理における前述の財政的制約、時間的制約、技術的制約及び社会的制約による困難性の下においてなした極めて妥当なものであつた。

(六) 原告らの平作川の瑕疵についての主張に対する反論

(1) 平作川の流下能力について

原告らのいうパラペットのない箇所とはパラペットが角落し構造となつている部分であり、これは地元の住民の利便を図るため平時には開いておき、平作川が増水して溢水する危険のある場合には閉じることを前提にして設置されているのであるから、パラペットは堤防と一体となつた機能を有しているのであつて、パラペツトのない部分の流下能力を低く計算(原告らは毎秒五六・三立方メートルという。)するのは何ら意味のないことである。

また、原告らは、平作川の流下能力は五郎橋で毎秒約一〇〇立方メートル、その下流の梅田橋で毎秒約七七立方メートル、夫婦橋直下で毎秒五〇ないし六〇立方メートルであるから、下流に行くにしたがつて流下能力が低くなると主張するが、夫婦橋直下には当時二本の橋脚、土砂、岩石及び小屋等があつたが、本件水害時には毎秒一八〇立方メートルの流下能力があり、河口から上流に向けて、二・四キロメートル地点(以下、「①区間」という。)、以下同じく同地点から三・三キロメートル地点(以下、「②区間」という。)、同地点から四・五五キロメートル地点(以下、「③区間」という。)、同地点から五・九キロメートル地点(以下、「④区間」という。)についてそれぞれその流下能力を検討すると、①区間は毎秒約八〇立方メートル、②区間は毎秒約七〇立方メートル、③区間は毎秒約六五立方メートル、④区間は毎秒約五五立方メートルであるから、原告らの主張は明らかに誤まつた前提に立つている。

なお、平作川の一連区間毎の流下能力は別紙図面(二)のとおりであり、下流へ行くにしたがつて大きくなつているのであつて、原告らの主張は誤りである。

更に、原告らは上流の五郎橋付近において毎秒一〇〇立方メートルの流下能力があつたのに対し、下流の梅田橋において毎秒八〇立方メートルの流下能力しかなかったが、梅田橋付近及びその下流は五郎橋付近の流下能力以上のものを有していなければならない旨主張するが、前述したとおり河川の有する流下能力はある一連の区間において決まるものであつて、そうすると五郎橋付近の一連の区間の流下能力は毎秒約六五立方メートルとなるのである。また、上流の一連区間をみると、流下能力は毎秒約五五立方メートルであるから、平作川全体からみると五郎橋の改築工事及び真崎橋から五郎橋までの間の護岸整備は例えれば別紙図面(三)に示すとおりあたかも蛇が卵を飲んだかのような状況であり、右整備部分は下流へ影響を及ぼすものではない。このように、原告らは流下能力について五郎橋付近の点におけるそれをとらえて短絡的な主張をしているのであり失当である。

(2) A・B間の高さについて

原告らは、平作川のA・B間に相当する国道部分は、隣接する他の部分よりも低く、溢水しやすい状況にあつたと主張する。

原告らのいう「隣接する他の部分」がどの部分であるか不明確であるが、仮に隣接する他の部分が梅田橋、日の出橋がそれぞれ平作川を横断している部分であると解するならば、これら橋梁が河岸の上に設置されていることに伴つて、道路をそれぞれの橋に取り付けるため一定区間が高くならざるを得ないことは当然のことである。また梅田橋の上流部分の道路が高くなつているのは、もともと地形的にこの付近の地盤が高かつたこと及びカーブが存する関係上設置されているカントにより道路の機能上高くなつているのに過ぎないのである。

次に、原告らがA・B間に相当する国道部分(河岸)が他の部分よりも低いとする主張についても、A・B間の標高が平均して二・五ないし二・六メートルとしている値のうち、二・五メートルというのは国道への進入道路地点の高さであり、最低とした二・二メートルというのはワカフジベーカリーの敷地高であつて、いずれも河岸の高さではなく、またB点下流の標高三・二メートル、三・四九メートルとは前述の橋に取り付けるため高くなつているところの高さであるから主張の根拠が誤つている。更に、A・B間の河岸の高さを右岸の河岸高と比較してみると、A・B間においては加藤ボート付近の河岸高がT・P二・六メートルであるのに対し、右岸側のこの付近の河岸高はT・P二・四メートルであるからA・B間が他に比較して溢水しやすい状況にあつたとはいえない。

(3) 夫婦橋直下の土砂等について

原告らは夫婦橋直下は二本の橋脚があり、それと岸壁との間に土砂、岩石、小屋及び材木等があつたため、狭さく部分を形成し水位を上昇させる原因をなしていたと主張する。

しかしながら、同所付近の流下能力は前記のとおり毎秒一八〇立方メートルであつて同地点として狭さく部分を形成しておらず、一方、本川上流の梅田橋付近の流下能力は毎秒八〇立方メートルであり、また、原告らは、吉井川は平作川に流入する自然流下の川として期待できないとしているが、この吉井川の流下量をも考慮したとしても、十分流下し得る断面を有していたのであるから、阻害要因とはなつていなかつた。なお、原告らが指摘する土砂は漁船の航行のため澪筋を設ける低水路工事を施行した際に従前の河床が高水敷状に残ったものであり、洪水により運ばれた土砂が堆積したものではない。

(4) C・D・E各地点のパラペツトの途切れについて

原告らは、平作川の夫婦橋直前の上流左岸は、パラペツトが設置されていたが、C・D・Eの各点にそれぞれ、二・六メートル、一メートル、四メートルの幅の切れ目があつたので、それらから溢水する危険があつたと主張する。

ところで、パラペツトの設置にあたつて部分的に角落し構造とし、沿川住民の生活上の利便に供するため平水時には開いておき、洪水時には洪水を堤内地に流入させないように角落しを閉じる構造とすることは、当時神奈川県内においても、鶴見川、柏尾川等に見られたように一般的なことであり、本件パラペツトのC・D・Eの各切れ目は地元住民及び漁業関係者への生活上の必要性を配慮したうえで施工された構造である。すなわち、平水時において生活上の通路として利用に供する必要があり、加えてE点は旧人道橋として歩行者の通行にも供する必要から角落し構造として施工したものであり、いずれも洪水時において平作川から角落しを通つて堤内地に溢水する危険がある場合には、角落しを閉じることによりパラペツトと一体となり溢水を防止する構造と能力を有していたものであつて、パラペツトとしては十分な効用が存していたものである。しかも、本件水害当日は常に内水位が外水位(平作川の水位)より高く、内水がパラペツトのC・D・Eの各地点から平作川へ流れ込む状態であつたため、角落しを閉じることはむしろ内水を滞留させることになり、被害を逆に大きくすることになるから角落しを閉じなかつたのである。したがつて、右角落しが閉じられていなかつたことと原告らが本件水害により被つたと主張する損害の発生との間に因果関係のないことは明らかである。

(5) 旧人道橋による流水阻害について

原告らは平作川E点付近は、同河川に沿つて、対岸の国道一三四号線よりもはるかに低い道路が並行して走り、その路面とほぼ同一の高さに旧人道橋が架けられていたので、平作川の水位が右国道の高さに達する程度に増水した場合には、水没して平作川の流水機能が著しく阻害される状況にあつたと主張するが、本件水害当日、旧人道橋は水没しなかつたのであるから、右主張は前提を欠き失当である。

(6) 平作川の川幅の比較について

原告らは、A点から夫婦橋までの区間は夫婦橋よりも下流部分の川幅と比較して著しく狭く、かつ、同区間の流水機能が著しく阻害される状況にあつたと主張する。

右の原告らの主張する「夫婦橋より下流部分の川幅」は、夫婦橋直下流部分から延長約一六〇メートルにわたつて存する漁船の船だまりを指すものと思われる。しかし、このような船だまりの川幅と上流部の川幅とを比較することは誤りである。船だまりは漁船を係留したり、修理あるいは作業場として設けられたもので、漁船を陸側に引き上げる必要のあることから、横断的には勾配を緩やかにとらなければならないため川幅が広くならざるを得ないことはその性格上当然のことなのであり、この広くなつている部分(船だまり部分)は流水を流下させる目的で確保したものではないから、上、下流部の川幅の比較は上流部にあつては夫婦橋直上流部と、下流部にあつては船だまり直下流部とについて比較すべきである。すなわち、夫婦橋直上流部の川幅は約三二メートル、船だまり直下流部の川幅は約三三・六メートルであるから流域から流出する雨水を流下させるため河口部に向かうに従つて次第に広くなつているものである。この船だまり部分は船だまりとしての構造上広くなつているに過ぎず、使用目的、効用の異なつた船だまり部分を含めた幅をもつて比較することは誤りなのである。したがつて、平作川のA点から夫婦橋までの区間の川幅は、夫婦橋下流部分の川幅と比較して著しく狭いという事実はなく、それゆえ川幅が狭いためA点から夫婦橋までの区間の流水機能が阻害される状況にもなかつたのであるから、原告らの主張は失当である。

5 本件水害の状況

一 本件水害時の降雨について

(1) 降雨状況

本件水害時の県下の主な地域の総降雨量についてみると、横浜で一〇七ミリメートル、大山で一二七ミリメートル、元箱根で二二六ミリメートル、塔ケ岳で一三七ミリメートル、玉川学園で七二ミリメートル、横須賀宝金山で一九五ミリメートル、横須賀観測所において二五〇・五ミリメートルをそれぞれ記録し、右各地の定時最大一時間雨量及び定時最大三時間雨量についてみると、別表(四)のとおり、特に横須賀地方において短時間に極めて大量の雨が集中的に降つたのである。

このような降雨の結果、災害の範囲は、人的被害、住家被害等に広く及び、特に崖くずれについては、横須賀市内の一四三八件を初めとして県下全域で、一八七三件も発生するに至つた。これに起因して死者一三名、重軽傷者は二八名にも達したが、そのほとんどが横須賀市内の居住者であつた。また、家屋の被害については、全壊一二六戸、半壊・一部破損等六一一戸の被害が発生し、このほかに床上浸水家屋は七〇九三戸、床下浸水家屋は一万一六一五戸に達した。これら、本件集中豪雨により被つた被害の総額は、六九億二六〇〇余万円にも及んだが、そのうち五四億三一〇〇余万円が横須賀市内において発生した被害であつたという極めて局地的な災害状況であつた。

(2) 降雨の特徴

平作川流域における降雨状況についてみると、昭和四九年七月八日午前一時ころから降り始めて同日午前二時ころから強雨となり、横須賀観測所では、同日午前四時三五分から同日午前五時三五分までの一時間に最大時間降雨量六八・二ミリメートルを記録したが、この数値は、同観測所の過去最大観測値である同四三年六月一六日の最大時間降雨量五八・六ミリメートルをも上回つた観測史上最大の降雨記録であつた。この降雨量はまた三浦半島と同じく降雨の少ない地域性をもち、かつ、県内で観測記録が長期間(昭和一五年からの観測記録)保存されている横浜地方気象台における過去最大時間降雨量六三・二ミリメートル(昭和二一年一一月二七日)をも上回るものであつた。

次に最大三時間降雨量についてみると、横須賀観測所では当日の午前二時五〇分から午前五時五〇分までの間に一五三・九ミリメートルを記録しているが、この数値は最大時間降雨量と同様に横浜地方気象台の過去最大観測値である昭和三六年六月二八日の最大三時間降雨量一一六・七ミリメートルを上回る観測史上最大の降雨記録であつた。

(3) 洪水処理機能の限界と本件洪水の流出量の異常性

ア 平作川の洪水処理機能の限界

主として堀込型式の河道の河川が安全に処理できる洪水の規模は、河岸や堤防の高さ以下の水位の洪水までである。

ところで、河道の特定地点について安全に処理できるといい得る洪水とは、その地点の水位がその地点から下流の区間のうち河岸高が最も低い部分の高さを上回らないように流下できる最大の流量であり、これがその地点における洪水処理機能の限界に対応する流量であり、平作川の主要地点における洪水処理機能の限界に対応する流量は別表(五)のとおりであつた。

イ 本件洪水流出量の異常性

ところが本件降雨は、一時間降雨としても異常に強い雨が五時間も局地的に継続する特異な降雨であり、前記のとおりこの豪雨は短時間降雨としては横浜地方気象台の観測記録についてみても観測史上最大のものであつた。そして本件豪雨により平作川において生じたと推定される洪水が、河道から溢水しなかつたとすれば、その主要地点の最大流出量は、宮原橋付近で毎秒約九八立方メートル、五郎橋付近で毎秒約一一一立方メートル、梅田橋付近で毎秒約一九五立方メートル、夫婦橋付近で毎秒約二三六立方メートルとなり、この最大流出量を先に示した平作川の洪水処理機能の限界に対応する流量と対比してみると別表(六)のとおり、当日の平作川の洪水の最大流出量はほぼ平作川河道の全区間において、安全に流下させ得る流量を少なくとも二ないし三倍上回るものであつた。

更につけ加えれば、当日の豪雨は、平作川流域の上流域においてまずそのピークが発生し、時間の経過とともに流域の下流側で降雨のピークが発生するという特異なものであつた。このような雨の降り方は、一般に下流での洪水の最大流出量を極端に大きくする傾向をもつが、本件洪水でも、上流域の降雨による洪水流出量が下流へ到達するにつれて下流域での降雨による洪水の流出がこれに重なることとなり、本件の下流域での洪水流出量を極端に大きなものにしたものである。つまり、本件災害時には、河川の機能を一杯に使つてしまい、余つた水は背後地を流下あるいは直接滞水するという経過をたどり、その結果平作川の沿川地域は上流より下流まで一面湖のような状態を呈したのである。これは平作川の洪水処理機能の限界を超えた流出量が余りに大きかつたために生じた現象であつたことは明らかであるから、当時一応の改修が下流からほぼ終了していた平作川でも、この異常な大洪水を完全に処理するには極めて大規模な抜本的な河川工事を全川にわたつて事前に実施する以外になかつたのである。

(4) 本件水害時の降雨量の予見可能性

本件水害当日の雨量は予見できたという原告らの主張は、以下に述べるように何ら合理性がないものである。

横須賀地方と同じく降雨の少ない地域性をもち、かつ長期間にわたつて観測記録が残されている横浜地方気象台における昭和一五年から同五六年までの観測値のうち、日雨量の上位一〇位までとその時の最大時間降雨量は別表(七)のとおりである。

右の表から明らかなとおり、日雨量が大きければ時間降雨量も大きいという相関関係は何ら認められない。したがつて、日雨量との相関において時間雨量を容易にすることができるとする根拠はないのである。ちなみに、同気象台における昭和一五年から同五六年までの観測値のうち最大時間降雨量の上位一〇位までとその日の日雨量は別表(八)のとおりである。

なお、平作川流域に関連を有する各観測所での本件水害時の降雨量は次のとおりである。

ア 最大時間降雨量(六〇分間)

横須賀観測所 六八・二ミリメートル

宝 金 山 五九・四ミリメートル

運輸省港湾技術研究所 六七・〇ミリメートル

横須賀土木事務所 欠測(過去最大は昭和四〇年五月二七日の四九・〇ミリメートル)

横須賀市消防本部 七〇・〇ミリメートル

イ 最大三時間降雨量(一八〇分間)

横須賀観測所 一五三・九ミリメートル

宝 金 山 一〇〇・〇ミリメートル

運輸省港湾技術研究所 一一〇・〇ミリメートル

横須賀土木事務所 欠測(過去最大は昭和四〇年五月二七日の八四・〇ミリメートル

横須賀市消防本部(定時最大三時間) 一六一・〇ミリメートル

ウ ところで、横浜地方気象台の過去最大観測値は次のとおりである。

最大時間降雨量(六〇分間) 六三・二ミリメートル

最大三時間降雨量(一八〇分間) 一一六・七ミリメートル

したがつて、横須賀地方と同じような降雨分布を有する横浜地方気象台と比較すると、右四か所の観測所での最大時間降雨量の観測値が横浜地方気象台の過去最大観測記録を上回つた観測所は三か所あり、同様に同気象台の最大三時間降雨量の記録を上回つたのは二か所ある。また、右観測所での最大時間及び最大三時間降雨量は、それぞれ横須賀土木事務所の過去最大観測値をも上回つているのであつて、これらのことからも本件水害時の降雨量が平作川流域に関連を有する各観測所においても記録的な降雨であつたことは明らかである。

また、本件降雨量の六八・二ミリメートルについて、これは既に九三・二ミリメートルの将来構想を立案していることから、極めて異常な降雨量ではなく十分予測し得たものであるとすることはできない。右の九三・二ミリメートルの数値は過去の降雨実績をもとにした最も合理的な確率計算による分析結果から算出し、「一〇〇年に一回」という極めて稀有な予測割合による降雨を想定してこれを行政目標としたものであつて、既に述べたとおり財政的時間的制約等のもとにおいては長年月をかけてその達成に努力せざるを得ないのであるから、行政目標を設定したことのみをもつて直ちにその時点において右のような結論を導きだすことはできない。

(二) 本件地域における平作川の溢水と本件水害との因果関係について

昭和四九年七月八日午前一時ころから降り始めた降雨は、同日午前五時までに一三三・一ミリメートルの降雨量を記録したため、横須賀市内における道路は各所で冠水し、国道一六号線一般国道一三四線、県道野比葉山線、県道浦賀港線がいずれも通行不能となり、特に横須賀土木事務所前(本件水害当時、横須賀市馬堀海岸二丁目二八番地所在)の国道一六号線は、同日午前三時ころには水深約五〇センチメートル以上も冠水し、本件地域でも午前四時三〇分ころには舟倉町一一二番地付近の道路が既に冠水しており、また、同町一三二五番地付近の道路でも午前五時ころには吉井川の溢水により泥水が流れていた。

そして、平作川のA・B間の溢水はE地区前面の堤防から始まったが、その時刻は午前六時五〇分ころであり、その時の内水位は少なくともT・P二・五メートルであつた。また、日の出橋から夫婦橋の間では、吉井川の方の水位が平作川の水位よりも高く、吉井川の逆流及びC・D・E点からの平作川の溢水はなかつた。つまり、D点については、地盤高がT・P二・二メートル、C点がT・P一・七三メートルであり、D点の方が地盤が高くなつており、C点から平作川の溢水はなく、まして、C点の地盤より高いD点からの溢水はあり得ない。

原告らは床上浸水が平作川の溢水によるものであることを立証すべきであるにもかかわらず、右因果関係は何ら立証されていない。そこで、平作川の溢水が始まる午前六時五〇分以前の原告らの床上浸水についてみると、原告らの一部については、床上浸水とA・B間における平作川からの溢水との間には因果関係は存在しないことが明らかである。すなわち、既に述べたとおり、A・B間において平作川から溢水が始まつたのは午前六時五〇分ころであること及び同区間においては西村アパート前の道路はT・P一・七メートルでありその地点の水位は〇・八メートルであつたことからすると、平作川からの溢水が始まる前の内水位は少なくともT・P二・五メートルであつたが、一九名の原告家屋の敷地高に床高(明らかとなつている家屋についてはそれにより、床高が明らかにされていない家屋については建築基準法施行令二二条一項では床高は四五センチメートル以上と定められていることに照らして五センチメートルの余裕高を見て五〇センチメートルと想定する。)を加えて床高の標高を求めると別表(九)のとおりであり、そのうち北村直由他一〇名についてはその床上高がT・P二・五メートル以下であるから、平作川からの溢水が始まる前に、既に内水によつて床上浸水が生じていたのである(別表(一〇))。したがつて、これらの原告については、その家屋が床上浸水の被害を受けたことと平作川の溢水とは因果関係が存在しないものというべきである。

内水と外水とで被害が生じたとき、被告国及び県の責任は、原告がいうようにその被害について競合して存在するのではなく、平作川の溢水前に内水による床上浸水被害が明らかである以上、平作川の溢水による責任は生じないというべきである。

6 原告ら主張の損害論に対する反論

(一) 床上浸水高の信ぴよう性について

原告らは、床上浸水の程度によつて損害額を二段階に分け、それぞれ一律の金額を請求しており、その床上浸水被害は最低〇・二メートルから最高一・七六メートルであるとして、り災証明書をその根拠としている。

ところで、原告らのうち、岩村文雄、北村藤兵衛、砂山タツヨ、石渡友吉の四人について、その敷地高、床高、床上浸水高及び浸水位の状況をみると別表(二)のとおりである。

これによれば、同一地域に居住している原告ら四人について、浸水位(敷地高、床高、床上浸水高の合計)は当然ほぼ同一となるべきであるのに、最高で三・六〇メートル、最低で二・八九メートルとなつており、その差が〇・七一メートルもあるのであつて、被告国及び同神奈川県が知り得たわずか右四名の原告についてさえ、既に床上浸水高の信ぴよう性については強い疑問をもたざるを得ないのである。更に、床高は明らかでないが一応〇・五メートルと推定し、浸水位等を算出してみると、別表(三)のとおりとなる。

別表(三)からもまた明らかなように、右原告ら一九人についてみた場合には、当然ほぼ同一となるべき浸水位について、最高で三・七〇メートル、最低で二・八九メートルとなつておりその差は〇・八一メートルにも及んでいるのである。

なお、原告山田ハナ(別紙原告目録(一)36)について、同人の被害届には、居住建物は一階建、家財のほとんどは水につからなかつたと記録されており、他方、り災証明書では床上浸水一二〇センチメートルとなつている。しかし、一階建の居住家屋で家財がほとんど水につからなかつたということからすると、一二〇センチメートルの床上浸水があつたということは考えられないのである。

(二) 世帯(家族)単位の損害賠償請求について

原告らは世帯(家族)のうち誰か一名が原告となり世帯(家族)全体被害について損害賠償請求をしているが、本来、損害賠償は現に被害を受けた個々人の被害をそれぞれの個々人ごとに計算し、その被害額を補てんすることをその目的とするものである。

原告ら本件以外の者の被害についての損害賠償を、原告ら本人が自己の損害として請求することができないことは損害賠償制度の目的からして明らかである。したがつて、家族共同の被害という漠然とした損害賠償請求は許されるべきではない。

(三) いわゆる包括一律請求について

原告らは床上浸水被害の特色として、それが財産的・非財産的・精神的損害のすべてを内容として包括する健康で文化的な生活を享受する利益そのものの侵害であるとし、それは同一水害により被害を受けた者に共通な被害であり、単なる家庭の構成員である個人の被害としてではなく家族全体の被害であつて、家庭の構成や資産等により価値の大小がないから平等に取扱われなければならない旨述べて、包括一律請求の理由としている。

原告らのいう各種の損害を生活利益の侵害として包括するということは、単にひとつの概念を用いて表現したに過ぎないものであつて、右概念でとらえたからといつて、損害額を決定するための何らの実体的損害が把握されたわけでもなく、抽象的概念の域を出るものではない。

水害による被害の態様に共通性があることは認められるが、精神的損害はともかくとして、財産的損害に共通性はなく、原告らが包括的概念としてとらえた生活利益の侵害をもつていう被害の共通性は、一概念でとらえたことによる共通性であつて、実体的にみても、精々、財産的・非財産的さまざまな損害を受けたという点で態様的に共通する、ということをいうものに過ぎない。そもそも、財産的損害を含ませる以上、各人の財産的損害額を個別的に算定し得ないはずはなく、単にその算定の困難性のゆえに、これに代えて生活利益の侵害を損害額算定の直接の対象として許容しうる何らの根拠も論理的必然性もないのである。そして、この理は賠償請求者の員数の多寡により異なるものでないことはいうまでもない。

原告らは、被害を個人の被害でなく家族全体の被害として把握すべきものと主張し、前述のとおり本件において一家庭を一人が代表して請求しているが、この点については、原告らが予備的に構成している慰藉料請求としてみた場合にも、そもそも精神的損害は個人について発生するものであり、慰藉料算定上、財産上の損害の存否、程度の差異を含め個人単位で諸事実を異にし、したがつて評価が異なるはずであつて、水害による被害の同質性を考慮にいれても、一家庭一律請求はその根拠を欠くものである。

(被告横須賀市)

1 総  論

(一) 河川管理責任について

河川は本来自然発生的な公共用物であるが、それが通常有すべき安全性を欠き、他人に危害を及ぼす危険な状態にあるか否かは、昭和五九年一月二六日最高裁判決に判示されているとおり、当該河川について、過去に発生した水害の規模、発生頻度、発生原因、被害の性質、降雨状況、流域の地形その他の自然条件、土地の利用状況その他の社会条件、改修を要する緊急性の有無及びその程度等の諸般の事情を総合的に考慮し、河川改修についての技術的制約、流域の開発等による雨水の流出状況の変化、低湿地域の宅地化、用地買収の困難性等の社会的制約、河川においては簡易かつ臨機的危険回避手段が不可能であることなどの諸制約のもとで、同種同規模の河川管理の一般水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性を具備するか否かを基準に判断すべきである。

(二) 平作川の流域等について

(1) 平作川流域の地形及びその形成について

平作川流域のうち、本件水害発生地域は久里浜湾に続く入江及び芦原であつたが万治年間に埋立てにより新田開発され現在の夫婦橋付近から上流の流域一帯は水田地帯となつた。そして、夫婦橋から下流は大正一二年まで入江となつていたが、関東大震災になつて一帯が九〇ないし一二〇センチメートル隆起して湿地帯となり、その後、昭和六年ころから神奈川県によつて整備されて、同七年ころほぼ現在の平作川の形状になつた。

このように平作川流域はもともと水田にするために埋立てられたため低湿地であり、そこには水路が縦横に走つており、吉井川も水田に取水する水路の一つであつたものである。また、この平作川流域の水田は標高が極端に低く、しかも後背地が丘陵地帯であるため降雨時には冠水することがしばしばあり、冠水すると数日は水が引かず、舟によつて通行せざるを得ないような状態であつた。しかしながら、このような状態の土地であつたが、昭和一七、一八年ころから部分的に埋立てられ、民家が散在するようになり、更に、同三〇年代から同四〇年前後にかけて、水田の宅地化が急激に進み、水田はほとんどなくなり同時に水路も埋立てられていつた。しかし、これらの埋立てはほとんどが小規模な個別の埋立てであつたために、冠水の常襲地域であるにもかかわらず、浸水に対し充分な高さをもつ宅地とはされなかつた。

(2) 甲・乙・丙水路の設置

ア 乙水路の設置

右のような平作川流域の埋立ての過程において、昭和三三年ころ京浜急行電鉄株式会社が車両修理工場の新設を計画し、被告横須賀市に対し、敷地造成に伴う水路付替えの承認を求め、(昭和三五年一〇月一二日付)、被告横須賀市は、当時水田が残存していたために、雨水の排水を兼ねた水路を付替え設置させることとし、降雨強度を時間当り六〇ミリメートルと想定した水路を設計し、付近耕作者と右京浜急行電鉄に協議させたうえで付替え水路として現在の乙水路の設置を承認し、京浜急行電鉄において水路設置を完了した。

イ 甲・丙水路の設置

甲水路は長銀団地及び辰巳団地の造成に際して設置された暗渠の水路であり、丙水路は池田団地の造成に際して在来の水路を整備した一部暗渠の水路であるが、これらの設置・整備についてはいずれも降雨強度を一時間につき六〇ミリメートルの場合においても充分排水可能な基準で設計施工されたものである。

(三) 被告横須賀市の下水道事業について

(1) 概況について

被告横須賀市の下水道施設は、昭和一九年以前は一部道路に側溝を有するのみでほとんど皆無に等しいものであつたが、同年に至り、海軍等の要請があり公衆衛生の見地から上町地区一一五〇ヘクタールを対象区域とする下水道事業が策定された。しかし、右計画は上町地区の一部に合流式汚水管渠の埋設を行つたのみで、下水道施設としての効果は見るべきものはなく、雨水については在来の開水路により、自然の地形による流下にまかせていた。

そして、戦後の混乱期を経て、昭和三〇年代に入ると、被告横須賀市が、かつての軍港都市から、商業、軽工業、観光都市化し、また、丘陵地帯の開発増加に伴い、下水道の整備は急務となり、下水道も従来の単なる衛生施設から、都市の基本的な施設として、全市的な計画を実行することが必要となつたため、同一九年三月三一日付厚生省神衛第七二五号下水道築造認可に基づいて都市計画下水道並びに同事業及びその執行年度割について、同三二年一二月一二日建設省告示第一六〇七号をもつて決定を得、その執行に着手したが、右事業は同三二年度より同三九年度までの期間に実施し、右事業に要する費用は総計金三億〇六四八万五〇〇〇円の見込であつた。

右事業の執行中も被告横須賀市の都市化は著しく進み、下町地区の既成市街地には次々と近代的建物が建設されていつたが、在来水路は完備されているものが少なく、この地区に対しても下水の系統的排除を行う必要が生じた。そのため、被告横須賀市は従来の事業を拡張し、下町地区の一部七〇・九三ヘクタールを若松排水区として新たに事業の範囲に加えることとし、昭和三八年八月二〇日建設省告示第二一五八号をもつて右事業決定(変更)を得たが、右追加事業は、従来の事業決定分と併せて同四四年度までの期間に実施し、右追加事業に要する費用は、約一三億一三五〇万円の見込であつた。

ところで、被告横須賀市は昭和三九年に至り、前年第一回の変更決定を得た事業決定を再び拡大変更することとし、同年九月一日建設省告示第二五四二号をもつて事業決定(第二回変更)を得たが、右変更事業は、従来の事業決定分と併せて、同四七年度までの期間に実施することとし、右変更事業に要する費用は総計三一億五〇〇〇万円の見込であつた。

更に被告横須賀市は昭和四一年に従来からの浸水地域で、大雨の都度多数の浸水家屋のでる追浜地区に対し、浸水対策として都市下水路の設置を計画し、同年九月一四日建設省告示第三二〇二号をもつて事業決定(第三回変更)を得たが、右追浜地区の事業は従来の事業決定分と併せて同四五年度までの期間に実施することとし、右追浜地区の事業に要する費用は約一億七〇〇〇万円の見込であつた。

このように被告横須賀市は、部分的に下水道事業を拡大するかたわら、急激な人口の増加、過密化に対処するため、昭和三八年から全市的な細密調査を行つたうえで全体下水道計画の基本を策定し、都市施設としての下水道を整備し、雨水・汚水排除の効果をあげるべきことを計画していたか、同四二年に事業計画の設定を終り、同四三年三月三〇日建設省告示第七二四号をもつて事業決定(第四回変更)を得るに至つた。右事業の内容は別表(一三)のとおりであり、従来の事業決定分と併せて昭和四七年度までに実施することとし、右事業に要する費用は約八五億八九〇〇万円の見込であつた。

なお、被告横須賀市は、昭和四三年になされた事業決定に基づき、下水道整備を進めた結果、同四七年度には施設整備がほぼ完了する見込を得たので、計画排水区域を大幅に拡大し、汚水の集水処理、雨水の排水処理設備の整備を行つて生活環境の適正化をより一層進めるべく全体的な下水道計画(昭和四八年三月三〇日市告示第一九号)を策定したが、この計画は別表(一四)のとおり計画排水面積を従来の一〇八一・五三ヘクタールから、被告横須賀市の市街化区域面積の約七三パーセントにあたる四四四三・五六ヘクタールに拡大するものであり、従来の事業決定分と併せて同五三年度までに実施することとし、右事業に要する費用は約三四七億二八〇〇万円の見込であつた。

被告横須賀市においては右に述べた各事業計画の実施により、昭和四一年度末と同五一年度末を比較すると、排水面積は一五六・五〇ヘクタールから一一六四・五五ヘクタールに、埋設した管渠の延長は四四・〇〇キロメートルから三六六・八一キロメートルにそれぞれ飛躍的に増大した。また処理場、ポンプ場等の施設についても、昭和三九年に日の出ポンプ場の運転を開始したのを始めとして、同四一年に上町処理場、同四四年に追浜ポンプ場及び下町処理場、同四五年に根岸ポンプ場、同四六年に汐入ポンプ場及び久里浜第一ポンプ場、同四八年に馬堀ポンプ場、同五二年に舟倉ポンプ場の運転をそれぞれ開始した。

被告横須賀市が前述の事業を遂行するのに費した費用は、昭和四〇年度から同五〇年度までの間別表(一五)のとおりであり、被告横須賀市の一般会計に対する比率は最も少ない同四〇年度で五・九パーセント、最も多い同四七年度で一七・六パーセントであり、同年度における同程度の行政人口を有する船橋市の五・二パーセント、八王子市の九・二パーセント、立川市の五・二パーセントに比較すると、被告横須賀市が下水道整備に対して積極的に取り組んでいることが明らかである。ちなみに、昭和四七年度における下水道普及率は横須賀市が二一・三パーセントであるのに対し、船橋市においては一八パーセント、八王子市は四六・七パーセント、市川市は一三・三パーセントであり、この点においても横須賀市の下水道整備が他都市に遅れているとはいえないことは明らかである。もつとも、昭和四七年度において、同程度の行政人口を有する都市のうち福井市の五〇・六パーセント、川口市の四七・二パーセント、豊中市の三八・二パーセント等高い普及率を有する都市も多く存在するが、被告横須賀市も現在遂行中の事業計画を完了することによつて五〇・〇パーセントを超える普及率を達成すべく努力しているものである。

(2) 舟倉地区に対する下水道事業計画について

被告横須賀市は昭和四八年に策定した事業計画において、舟倉地区に対する汚水・雨水の排水計画を決定したが、舟倉地区は、現在のように宅地化される以前はその大部分が水田であり、しかも平作川から取水するために全体の標高は極めて低く、加えて、平作川に沿つて舟倉地区の南西を走る国道一三四号線は舟倉地区よりも標高が高くなつていたため、舟倉地区内の雨水等を平作川に排水することが困難であり、多量の降雨があると一帯が浸水する状態であつた。しかし、昭和三〇年代後半以降、被告横須賀市の他地区と同様に舟倉地区にも宅地化の波が押し寄せ、同四〇年代前半には地区のほとんどが宅地化するに至つた。この舟倉地区の宅地化は前記のとおり水田、農業用水路等を埋立てて行われたものであり、埋立ての大部分は全体的な計画に基づかない個々の宅地造成であつたために、舟倉地区が前述のような慢性的な浸水地区であるにもかかわらず、充分な排水対策を持たないまま宅地造成がなされてしまつた。その結果、宅地化された後も地区全体の標高は極めて低く、最も低い部分では標高が一メートルにも満たないような状況となり、多量の降雨があると、従来水田等に滞水していた雨水がそのまま宅地内に滞水するようになつてしまつた。

そこで被告横須賀市は、昭和四八年に下水道の全体計画を策定するにあたり、舟倉地区に対する浸水対策を講ずることとし、汚水の処理対策とともに、舟倉地区に対して、久比里一丁目に舟倉ポンプ場を設置し、吉井川の周辺区域四二・五九ヘクタールの雨水を吉井川によつて、右ポンプ場に流下させてポンプ排水によつて平作川に放流することとし、汚水については、区域内の汚水を舟倉ポンプ場に流下させて隣接する池田排水区を経由して下町処理場において処理するという計画を策定した。

なお、被告横須賀市は昭和五三年度から事業計画を変更し、舟倉町に舟倉第二ポンプ場を設置して乙水路周辺区域及びその後背地一五九・一四ヘクタールの雨水を乙水路等によつて右ポンプ場に流下させてポンプ排水によつて平作川に放流することにし、右変更については、同年三月ころに認可を得たのである。しかしながら、舟倉地区は前述のように標高が低く、しかも平作川河口近くに位置しているために、地区内の雨水を従来の水路によつて自然流下させて平作川に放流している限り、いかに水路自体を整備しても多量の降雨、潮位などの影響により平作川の水位が高くなると、平作川の水位と地区内水路との高低差がなくなつて、自然流下は阻害されてしまうから、舟倉地区の雨水を完全に地区内から排水するためには地区全体を土盛りして、標高を高くして、自然流下させるか、あるいは平作川への吐け口を閉鎖して、ポンプにより排水するほかはないものであるが、地区全体の土盛りは経費的に不可能であるため、ポンプ排水の方法をとつたものである。

被告横須賀市は前記計画に基づいて、昭和四八年三月三一日建設大臣の認可を受けると直ちに舟倉ポンプ場の建設準備に着手し、昭和四八年に用地買収を完了し、引き続き、地質調査、実施設計等を経て、昭和五〇年度から主体建設工事を行い、昭和五二年五月にポンプ場の雨水ポンプの運転を開始した。なお、右運転開始までに右ポンプ場設置に要した費用は合計一三億七六二九万円である。また、被告横須賀市は舟倉ポンプ場の設置完了に引き続いて、舟倉第二ポンプ場を設置すべく、同ポンプ場の設置を含む事業計画変更を申請し、その認可を得て、その建設を実施したうえ、昭和五七年ころに右ポンプ場の運転を開始した。右ポンプ場の完成によつて、被告横須賀市の舟倉地区に対する雨水対策はその大部分を完了する訳であるが、前述のように、舟倉地区が平作川との間に国道一三四号線を挾み、これよりも低地となつているので、もし、平作川が本件水害時のように溢水し平作川の水が舟倉地区に流入する事態になれば、ポンプ排水は実効性を失つてしまうため、被告横須賀市は、神奈川県との間における「建設行政県市連絡会議」において、従前から神奈川県に対し、平作川の護岸工事、浚渫等の実施を要望しており、被告横須賀市の事業と相まつて舟倉地区に対する浸水対策を全うすべく努めている。

(四) 吉井川及び甲・乙・丙水路の設置・管理の瑕疵について

(1) 吉井川及び乙水路の設置・管理について

吉井川は前述のようにもともと水田の灌漑用水路であり、その流域は水田であつたが、それらが宅地化されたために、おおむね排水路として利用されるようになつたものであり、しかも吉井川の流域の水田は排水について充分な設備を備えることなく宅地化されていつたために、一帯の住宅地は極めて水はけが悪く、多量の降雨があると容易に滞水するような状態であつた。また、乙水路についても同様であり、このような平作川流域の宅地化は必然的に浸水の危険性をはらんでいたものといえる。

(2) 甲・丙水路の設置・管理の瑕疵について

甲水路及び丙水路の設置・整備については、被告横須賀市は、その計画流量を降雨強度を一時間六〇ミリメートルの場合の雨水を排水し得る基準で算出し、設置・整備したものであつて、両水路は過去に記録された最大の降雨に耐え得たものである。

そして、甲水路は長銀・辰巳両団地から排出される雨水・汚水を内径一〇〇〇ミリメートルのヒューム管により圧送し、平作川に放流するものであるが、右水路の計画流量は毎秒二・三九一立方メートルであるところ、排水区域内の流出量は、時間雨量六〇ミリメートル、流出系数〇・五と想定した場合毎秒一・七七六立方メートルであつて二五・七パーセントの余裕があり、損失水頭の余裕一一パーセントと合わせて三六・七パーセントの余裕を有している。

次に、降雨時において、雨水の一部が甲水路に集水されずに流下し、舟倉地区に流入する可能性について検討すると、団地開発前の甲水路の沈砂池付近における雨水量は、排水面積一一・〇一ヘクタールに時間当り六〇ミリメートルの降雨があつた場合、流出系数〇・三、地表面勾配一〇〇〇分の一〇〇として毎秒〇・七五九二立方メートルであり前記マンホール付近における雨水量は、排水面積一六・二八ヘクタール(沈砂池上流一一・〇一ヘクタールを含む。)に時間当り六〇ミリメートルの降雨があつた場合、流出系数〇・三、地表面勾配一〇〇〇分の一〇〇として毎秒一・一〇二立方メートルである。

これに対し団地開発後の右aマンホール付近における雨水量は、上流地域の雨水が甲水路により直接平作川に放流され、排水面積が四・〇八ヘクタールに減少した結果、右と同一の条件において、毎秒〇・四九二立方メートルであり、開発前に比して〇・六一〇立方メートル減少したことになる。一方、団地開発後沈砂池よりも上流にあたる開発区域一七・六七ヘクタールに時間当り六〇ミリメートルの降雨があつた場合、流出系数〇・五、地表面勾配一〇〇〇分の七五として毎秒一・八七四立方メートルの雨水量があることになるが、右雨水量の三二パーセントが甲水路に集水されずに右aマンホール付近へ流下したとするとマンホール付近の雨水量を加算しても総雨水量は毎秒一・〇九一立方メートルでしかないから開発前の雨水量とほぼ同量になるに過ぎないものである。

また、丙水路は、現在池田団地として造成された区域及びその後背地等を含む区域の雨水を自然流下させ、平作川に放流する水路であつたが、京浜急行電鉄が団地を開発するに際し、被告横須賀市は流域面積を団地内一七・〇ヘクタール、後背地四七・二ヘクタール合計六四・二ヘクタールと計算し、雨水量については時間当り六〇ミリメートルの降雨があつた場合、流出系数〇・五、地表面勾配一〇〇〇分の七五として毎秒五・九〇立方メートルと想定して、その改修をさせたものである。右改修は計画流量毎秒五・九〇立方メートルに対し、水深八割として六・九〇立方メートルの流下能力を備えるべく設計してなされたものであるから、池田団地が開発されたために丙水路の流下能力を超えて流量が増加したということはあり得ない。

(3) 不可抗力について

以上のように被告横須賀市には吉井川及び甲・乙・丙水路等の設置・管理に瑕疵はなかつたものであり、本件水害は観測史上米が浜消防署においても最大の一時間七〇ミリメートルに達する異常な降雨によつて惹起されたものであつて、不可抗力による災害というほかない。

(4) 政治的責務について

なお、原告らは吉井川等が、大量の降雨時には、急速大量に流入してくる雨水を流下する雨水を流下することができず、通常有すべき安全施設を有していなかつた旨主張するが、前記のように、吉井川等はもともと灌漑用水路であつたものが水田の埋立てによる宅地化により排水路に転化したものであつて、被告横須賀市としても、このような水田の宅地化に対応すべく下水道の整備に努めているが、吉井川等の水流はいずれも平作川に流下する他なく、しかも舟倉地区が極端に標高が低いこととも相まつて、計画の実現には莫大な予算と年月を要するものである。このように、吉井川及び甲・乙・丙水路等の安全性をより高めて行く被告横須賀市の責務は、政治的な責務というべきである。

2 本件地域における吉井川及び甲・乙・丙水路の溢水と本件水害との因果関係について

本件水害時の雨量は、昭和四九年七月八日の横須賀市消防本部の降雨測定では、午前零時から同一時までの間に三ミリメートル、同一時から同二時までの間に三四ミリメートル、同二時から同三時までの間に四一ミリメートル、同三時から同四時までの間に四九ミリメートル、同四時から同五時までの間に六六ミリメートル(累計一九三ミリメートル)であつた。

ところで、当日は、午前五時までは吉井川は平作川に流入していたから、雨水が吉井川に流れ込む地域における降雨の大部分は午前五時までは平作川に流下し、同五時三〇分から同六時ころの間に平作川は溢水し原告ら居住地区に浸水したことになる。

なお、横須賀市消防本部の測定によれば午前五時から同九時までの累計降雨量は五七・五ミリメートルであり、吉井川に雨水が流れ込む地域の面積は、雨水の全部が吉井川に流れ込む地域が四二・五九ヘクタール、道路に設けられた雨水桝に入らない雨水と一部の方面に降つた雨水が吉井川に流れ込む辰巳・長銀両団地の地域が一七・六七ヘクタールであるから前者の地域に降つた雨水の量は、降雨量五七・五ミリメートルの場合に二万四四八九立方メートルであり、後者の地域に降つた雨水の量は、降雨量五七・五ミリメートルの場合に一万〇一六〇立方メートルであるか、その大部分は甲水路により平作川に流出させるから、吉井川に流れ込む量は多くみてもその二〇パーセントの二〇三二立方メートルとなる。

そして吉井川の水は、午前五時以後も平作川に流れ込んでいたのであるから、右の雨水合計二万六五二一立方メートルの相当部分は吉井川から平作川に流れ込んだのであり、溢水したとしてもその一部に過ぎないのである。また、午前五時以後に降つた雨水の量は、乙水路に雨水の流れ込む約一四三ヘクタールの地域で八万二二二五立方メートル、丙水路に雨水の流れ込む約七〇ヘクタールの地域で四万〇二五〇立方メートルであるが、右雨水についても吉井川と同様に全部が溢れるわけではない。(なお、右の雨水量はいずれも流出係数を一とした場合の計算である。)

以上によれば、本件水害時に原告ら居住地区に溢れた水の大部分は平作川から溢れたものであることが推認できるから、以上で明らかなとおり、本件地域における吉井川及び甲・乙・丙水路の溢水と本件水害とは因果関係はない。

仮に双方の溢水によるものであるとしても、その水量比率によつて責任が分割さるべきである。

3 原告らの主張に対する反論

(一) 予算的制約について

原告らは、被告横須賀市が全般的に下水道対策に努力しているという理由でその責任を免れることはできないと主張するが、被告横須賀市に限らず地方都市が多くの予算支出を必要とする諸問題をかかえる一方財源が限られているため苦慮し、被告横須賀市においても、限りある財源にもかかわらず多額の支出を必要とする問題を多くかかえていたのであり、下水道整備の必要は認めつつも、これに優先して解決すべき問題が多いため下水道のみを取り上げた場合には対策不充分といわれながらも、市政全般との関連でみた場合にはよしとせざるを得なかつたのである。このように、限られた財源と、予算支出を必要とする諸問題からみて、舟倉地区の排水計画に法律的責任の原因となる遅延があつたということはできない。

(二) 追浜地区との均衡

原告らは、追浜地区には昭和四一年度に浸水対策がとられたのに、舟倉地区は昭和四八年度に浸水対策がとられるに至つたことをとりあげて被告横須賀市を攻撃しているが、限られた財源で、多くの支出を伴う事業を行つたことになれば、浸水対策を含めた下水道事業に限つてこれをみても、最も対策を必要とし、かつ同額の投資を以て最も大きな効果の期待し得る事業を優先して着手すべきことは多言を要しないところである。

そして、追浜地区の下水道事業は、追浜本町、追浜町、追浜南町の一部七六・六三ヘクタールの地区を対象とするものであり、右四町全部の人口は、昭和四〇年度の国勢調査では二万〇九一四人であり、その前回である昭和三五年度においては一万八五九六人であつたのに比し、同四〇年度の国勢調査によると舟倉町全体の人口は一七一三人であつたのである(昭和三五年度においては舟倉町は当時内川新田の一部であつたため現在の舟倉町についてだけの人口の調査はされていないが、内川新田全体の人口が七二〇〇人であつた。)。このように、単純に人口を比較しても、追浜地区の対策が急がれたことは容易に理解し得るところである。

なお、舟倉町全体の人口を国勢調査でみると、昭和四〇年に前述のように一七一三人であつたのが、同四五年二四七五人、同五〇年三一三六人と急増し、舟倉町及び久比里一丁目における建物の建築状況を昭和三一年以降年度別に調査すると、舟倉町においては、同三〇年以前一一三棟に過ぎなかつたものが、同三五年には一四九棟、同四〇年には二九〇棟、同四五年には五五一棟、同四八年には七五八棟と急激に増加して来たのであり、このような人口、建物の急激な増加に対応すべく、被告横須賀市としては、同四八年に至り浸水対策を含めた下水道事業を計画実施することとなつたのである。

(三) 開発の抑制について

開発の抑制ということについても、舟倉町及び久比里一丁目のように浸水の予想される土地に建物を建てようとする者から建築確認の申請がなされた場合に、浸水のおそれがなくなる高さまでの盛土を命じ、又は被告横須賀市の浸水対策事業の終了まで建築着手を延期することを命ずるというようなことは当を得ないものであることは明らかである。

なお、被告横須賀市が、主張するのは、全体的な計画のない個々の宅地造成を行つて慢性的な浸水地区に建築したのであるから、建築者は浸水のあることを予想し、あるいは予測し得たのにこれをしないで建築したというべきであるし、その建物に居住する者もまた浸水のあることを予測したかあるいは予測し得るのにこれをしないで居住を開始したということである。もとより、そのような状況の下に建築がなされ、居住が開始されたのであるから被告横須賀市としても、これを放置してよいと主張するものではないが、被告横須賀市としては、舟倉町及び久比里一丁目程度の浸水の危険性があることを理由として建築及び居住開始を制限し得ないとすれば、建築、居住がなされてからその後を追つて対策を立てるほかないのであるから常に後手に回らざるを得ないのである。

(四) 治水事業の県・市間の関連について

本来舟倉地区のポンプ排水の計画は、本来平作川の流下能力、護岸等の洪水対策がどのようになされるかということと無関係にはなし得ないのであるが、舟倉地区の住居が急増したため、平作川の工事完成を待つことができないまま計画を立てて実行に着手したものである。したがつて被告横須賀市の計画樹立、工事実施の前に浸水があつたという理由により被告横須賀市にこれを防止すべき法律上の義務があつたということはできない。

(五) 吉井川の浚渫について

原告らは、被告横須賀市は吉井川の浚渫をしなかつた旨主張しているが、被告横須賀市は昭和四五年から同四八年まで毎年(昭和四六年は二回)吉井川の土砂浚渫工事を行つており、その他にも同四三年に護岸石積工事を行いまた伐開、清掃工事を行つている。

四  被告らの主張に対する反論

1  河川自然公物論について

河川が道路との対比において自然公物であり、異なるものであることは認められるが、この点は、絶対的な差異ではなく、両者の区別は相対的なものであるから、国家賠償法二条の解釈に区別をもうけるべきではない。

また、被告らは、河川が自然公物であり、その性質上常に洪水等により災害をもたらす危険性を内在していると主張するが、自然公物だから危険性が内在しているという論理必然性も経験的必然性も何ら存しないし、逆に道路が人工公物だから危険性がないという必然性もないのである。しかも、人工公物といわれる道路に内在する災害発生の危険性と河川に内在する災害発生の危険性とは質的な相違ではなく、両者の違いは単に量的な程度の差異にすぎないというべきである。したがつて、河川をまず自然公物と設定し、河川管理の特殊性を強調して河川管理責任を減免するような結論を導き出すのは不当であり、むしろ、公物に内在する危険性の大小は、そのまま比例して当該公物の管理責任の内容に反映するものと解すべきであり、河川においてその内在する危険性が大きければ大きいほど、その危険を回避すべき責任も厳しく課されているというべきである。

なお、被告らは、河川の場合、道路のように比較的容易に危険を回避する方法がないと主張するが、もともと洪水という異常事態においては、河川の場合にも道路と同じく危険を回避するための即効的な手段を講ずることは困難であり(即効的な対策として唯一考えられるのは、道路の場合にこれを閉鎖して危険地帯に立入らないようにすることと同じく、河川の場合にも洪水地帯から速やかな人的避難対策を講じて、人命の損失だけは生じないようにするという消極的危険回避策のみであろう。)、それゆえにこそ、事前に、上流域の山系の保護、遊水池の設置、保水能力のある山林の保全等河川への水流制御を講じ、あわせて堤防の強化、河床の掘削・浚渫、流路の整正等の河道の改修等の不断の対策が要求されるのである。

しかるに、平作川流域住民らの度重なる河川改修の要望にもかかわらず、被告国及び神奈川県において昭和三九年度に立案した平作川改修計画(時間雨量七一ミリメートル、流下能力夫婦橋河口毎秒三〇〇立方メートル)も遅々として進まず、昭和四四年度及び同四五年度の平作川河道調査の結果では、開発地域の流出量を安全に流下させるためには、あまりに流下能力が少なく、そのための改修工事費用が多額に上ることが判明したのである。

以上のように、平作川の洪水時の危険回避の困難性は、少なくとも被告らは昭和三三年の溢水の時に、十分知りえたはずである。しかもその後の流域の開発により、その困難性を自ら強めていつたのである。

2  安全確保義務と予算制約論について

仮にも国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を憲法で保障されているのであるから、その憲法を尊重し擁護すべき被告らが、予算制約をたてに、国民に対する安全確保義務を免れることはできないというべきであり、もし被告らのいうように予算不足を理由に管理責任を免れ得るとするならば、貧困な治水予算がまかり通ることになり、被害者の救済は後回しにされ、被害者は何時も泣き寝入りを強いられることは必定である。さらに、被告らのいうように河川改修の必要性・緊急性を総合的に判断して河川改修予算の当・不当を論ずることは河川行政の当否を論ずることになり、本来議会がすべきことを司法が判断することになり、憲法の基本原理である三権分立を侵す危険性すら生ずることになる。

また、河川の水系における安全性のバランスを考慮して危険回避措置をとるべきだとの主張は、それ自体当然のことであるが、問題は、果して被告国及び同神奈川県が主張するように、その河川改修の実態が、健全な社会通念上相当と認められる妥当なものであったかどうかである。

ところが被告らの行つた平作川の改修工事においては、平作川の梅田橋・夫婦橋の区間が他の部分と比較しても水害発生の危険性が大きかつたのであるから、単に従来の流下能力を維持するにとどまらず、緊急にこれを高めていく必要性が客観的に存在していたにもかかわらず実施されず、結局被告国及び神奈川県は、少なくとも第一回の改修計画策定時である昭和三九年から本件水害発生時まで、約一〇年もの長期にわたり、右区間の流下能力を高める改修工事を何ら実施せず、これを放置してきたのである。

すなわち、被告国及び同神奈川県の主張によれば、宮原橋、五郎橋、梅田橋、夫婦橋(河口)付近の流下能力は、本件水害当時、宮原橋付近が毎秒五五立方メートル、五郎橋付近が毎秒一〇〇立方メートル、梅田橋付近が毎秒八〇立方メートル、夫婦橋(河口)付近が毎秒一八〇立方メートルであつて、上流である五郎橋と下流である夫婦橋(河口)に挾まれた梅田橋付近の流下能力の低さが際立つている。そして、これを改善するために昭和四六年度に平作川暫定改修計画が立てられたが、本件水害当時の改修達成率は、五郎橋付近で四七・六パーセント、梅田橋付近で二八・五パーセント、夫婦橋(河口)付近で五八・〇六パーセントであつて梅田橋付近の改修達成率は極端に低くなつており、バランスのとれた改修とはいえず、河川改修工事における下流原則を無視したものとさえいえるのである。

このように、被告国及び神奈川県においては、昭和三九年当時本件水害の予見可能性が明白に存在していたにもかかわらずほぼ一〇年にわたり本件水害発生地域の改修工事を怠り、危険な状態で放置していたものである。したがつて、これによれば営造物の瑕疵の存在していたことは明らかである。

仮に被告国及び同神奈川県の主張するように、河川改修に莫大な予算を要するとしても、同被告らが被告横須賀市とともに、流域の開発、水田等の埋立て等に加担または黙認し、これに見合つた平作川の水流制御の策を講じなかつたため、莫大な予算を必要とするようになつたのであるから、自己の懈怠によつて生じた予算増大による予算制約を自らの責任減免の根拠とすることは、到底許されない。

3  安全確保義務と技術的・時間的制約論

被告らのいう技術的・時間的制約は極めて一般的・抽象的であり、原告らの主張する平作川及び吉井川等の特定の客観的瑕疵との関連でどのような技術的・時間的制約があつたのか明らかではなく、しかも被告らは昭和三三年九月(狩野川台風)、同三六年六月と二度にわたり平作川が溢水して流域住民が水害を蒙つたこと、少なくとも同三三年ころから流域住民から被告横須賀市に対して平作川改修等の陳情・請願がなされたことにかんがみれば、被告らは同三三年から本件水害発生まで実に一六年間も、何ら有効・適切な水害防止対策を講じなかつたものであり、被告らの技術的・時間的制約の主張は何ら具体的根拠を示すものではない。

4  社会的制約について

被告ら主張の社会的制約はいずれも抽象的・一般的で本件平作川改修について具体的にどのような制約が存在したのか明らかでなく、さらに、右社会的制約があたかも河川改修に固有の困難性のように強調するが、道路の改修の場合にも河川の場合と同じく社会的制約は存在するのであつて、右社会的制約をもつて河川管理の特殊性を強調するのは合理性がない。

5  不可抗力について

被告横須賀市の不可抗力の主張は否認する。

6  被告横須賀市の、下水道対策を尽くしたとの主張に対する反論

本件地域における被告横須賀市の排水対策の遅滞は明らかであり、被告横須賀市が、全般的に下水道対策に努力しているということは到底いえない。本件地域については、単なる衛生施設ではなく雨水対策を含めた排水施設が最も必要とされる地域であつたにもかかわらず、被告横須賀市は、早くからその対策を講じてこなかつたのである。

7  河川管理政治的責務論について

被告らの主張は河川は道路と異なり自然公物であることに着目し、道路との質的差異を強調して河川管理責任を限定しようというものであるが、河川を道路と区別してその管理責任に差異をもうける合理的理由はなく、河川管理は政治的責務なるがゆえに法律上の責任がないとする論理は、国家賠償法二条を根本から覆す論理にほかならず、また行政機関が特定の施策の実施を他の施策と比較しつつ行うことは当然であつて、このような一般的な行政の在り方を論拠に、河川管理者の営造物責任を否定できるならば、国家賠償法二条の存在意義は全く失われてしまう。国家賠償法二条は、右のような総合的施策そのものに対する判断の相対性・困難性から被災者を解放し、営造物管理の瑕疵を主張・立証すれば足りることにして、被災者の権利救済を全うせしめたのである。また、司法機関が政治的責務に著しく違反したか否かという政策判断の当否を判断しなければならないとすると、三権分立の建前にも抵触し、結局は国家賠償法そのものの否定に通ずるものである。

8  分割責任論に対する反論

被告横須賀市は、本件水害発生の原因について、仮に同被告管理の吉井川及び甲・乙・丙水路の溢水と被告国及び神奈川県管理にかかる平作川の溢水との双方の溢水によるものであるとされるとしてもその水量比率によつて責任が分割されるべきであると主張するが、これは、被告らの求償権比率を定める場合はともかく、原告らに対するものとしては全く無用の理論というべきである。なお、既に述べたように、平作川と吉井川及び甲・乙・丙水路は、水路の放流先が平作川になつている関係上、水の特性からみて、水位が一体として上昇するのであり、仮に吉井川のみが溢水したとしても、それは平作川も背水により実質的に寄与していたものとみることができ、また仮に平作川のみが溢水したとしても、吉井川及び甲・乙・丙水路からの流水が水位上昇の一因をなしていることは否定できないのであるから、吉井川及び甲・乙・丙水路も平作川の溢水に実質的に寄与していたといえるのである。

第三  証  拠≪省略≫

理由

第一  当 事 者

一  水害被災者としての原告ら

1  当事者間に争いのない事実

(一) 原告らと被告国及び同神奈川県との間においては、次の事実は争いがない。

昭和四九年七月八日梅雨前線が神奈川県下の各地に大雨をもたらし、三浦半島では同日午前二時から同八時までの間強い降雨があり、日雨量は場所によつては二五〇ミリメートルに及び、県下で家屋全壊、床上・床下浸水等の大きな被害が発生し、平作川が右降雨により溢水したこと。

(二) 原告らと被告横須賀市との間においては、次の事実は争いがない。

(1) 別紙原告目録(一)、(二)1ないし5、17ないし25の原告ら(ただし、別紙原告目録(一)2、10、14、18、24、37、55の原告らについては別紙承継人一覧表被承継人欄記載の被承継人ら)が、昭和四九年七月八日当時横須賀市舟倉町に、別紙原告目録(二)26ないし33の原告ら(ただし、別紙原告目録(二)30の原告については被承継人)が右当時同市久比里一丁目に居住していたが、原告目録(一)1ないし36(ただし、別紙原告目録(一)2、10、14、18、24の原告らについては被承継人ら)並びに別紙原告目録(二)1ないし5の原告らが別紙図面(一)表示のA地区に、別紙原告目録(一)37ないし40(ただし、別紙原告目録(一)37の原告については被承継人)の原告らが別紙図面(一)表示のB地区に、別紙原告目録(一)41ないし50の原告らが別紙図面(一)表示のC地区に、別紙原告目録(一)51ないし72(ただし、別紙原告目録(一)55の原告については被承継人)並びに別紙原告目録(二)17ないし19の原告らが別紙図面(一)表示のD地区に、別紙原告目録(一)73、74並びに別紙原告目録(二)20ないし25の原告らが別紙図面(一)表示のE地区に、別紙原告目録(二)26ないし33(別紙原告目録(二)30の原告については被承継人)の原告らが別紙図面(一)表示のF地区に、それぞれ居住していたこと。

(2) 昭和四九年七月八日当時平作川、吉井川の一部及び乙・丙水路が溢水し、これらの溢水流が渾然となつて周辺の家屋の床上に浸水したこと。

2  床上浸水被害とその程度

右当事者間に争いがない事実に、<証拠>並びに弁論の全趣旨によれば次の事実を認めることができ、他にこれを左右するに足る証拠はない。すなわち、

別紙原告目録(一)、(二)記載の原告ら(ただし、別紙原告目録(一)2、10、14、18、24、37、55並びに別紙原告目録(二)30の原告らについては、別紙承継人一覧表被承継人欄記載の被承継人。なお、別紙原告目録(一)2、10、14、18、24、37、55並びに別紙原告目録(二)30の原告らが別紙承継人一覧表被承継人欄記載の被承継人を相続したことは本件記録添付の資料によつて認められ、これを否定するに足る資料はない。原告らと被告横須賀市との間では右原告らが別紙承継人一覧表被承継人欄記載の被継承人を相続したことは争いがない。)は、いずれも本件水害当時別紙原告目録(一)、(二)記載の住所(ただし、原告目録(一)11、20、34ないし36、38、46、48、50、51、53、54、58ないし、61、63、65、68、70、72、74、別紙原告目録(二)1ないし5、7、10、14、15、17、19ないし21、25、28、31の原告らについては別紙本件水害被災当時の住所一覧表に記載の住所)に居住し(これを図示すると別紙図面(一)のAないしF地区になる。)、昭和四九年七月八日梅雨前線による本件豪雨により、いずれも床上浸水の被害を受けた(その浸水の程度は正確には明らかでないが、おおよそ別紙被害一覧表(一)、(二)記載の程度であつたことがうかがわれる。)。

二  公の営造物設置・管理者としての被告ら

1被告国が河川法により二級河川の指定を受けている平作川の管理者であることは当事者間に争いがない。

2神奈川県知事が機関委任事務として平作川を管理し、被告神奈川県がその管理費用を負担していることは当事者間に争いがない。

3被告横須賀市が下水道法三条一項により公共下水道である甲水路の管理者であることは原告らと被告横須賀市との間に争いがなく、吉井川、乙水路、丙水路についても、後記第四の二2記載のとおり、供用開始の告示については明確な資料がないとしても、事実上公共下水道として設置・管理している以上、右水路等についても同市が右営造物としての公共下水道の管理者ということができる。

第二  本件水害について

一  本件水害時の降雨量について

1  当事者間に争いのない事実

(一) 原告らと被告国及び同神奈川県との間では次の事実は争いがない。すなわち、

昭和四九年七月八日梅雨前線が神奈川県下の各地に大雨を降らせ、三浦半島では午前二時から午前八時までの間に強い降雨があり、日雨量が場所によつては二五〇ミリメートルに及んだこと、時間降雨量のピークが上流で午前五時ころ、下流で午前六時ころであつたこと。

(二) 原告らと被告横須賀市との間では次の事実は争いがない。

昭和四九年七月八日に降雨があり、これが平作川上流から降り始め、下流に移動したこと。昭和四九年七月七日の夜半から翌八日朝にかけて、台風八号の北上に伴つて移動してきた梅雨前線は神奈川県下の各地に大雨を降らせ、三浦半島では八日午前二時ころから午前八時ころにかけてかなり強い降雨があり、その総雨量は場所によつては二五〇ミリメートルに及んだこと。

2  本件水害時の降雨量

右当事者間に争いのない事実に、<証拠>によれば次の事実を認めることができ、他にこれを左右するに足る証拠はない。

(一) 昭和四九年六月二六日マリアナ東方海上で熱帯低気圧が発生し、これが同年七月一日に沖の島付近で台風八号になり、同月四日から五日にかけて沖繩本島の西海上を北上して同月六日に九州西方海上に達し、同月七日午前九時には日本海に入り勢力がやや衰え、同月八日未明には日本海中部に達したが、なおかなりの勢力を維持していた。右台風の北上に伴つて梅雨前線の活動がますます活発化し、同月六日から七日には西日本に局地的大雨を降らせ、次いで同月七日から八日にかけて東日本に移動し、右台風の進行前面から南下して東日本を縦断する形になり、これが神奈川県を通過するにあたり、県下に同月七日夜半から八日朝にかけて強い降雨をもたらした。そして、県内の雨量分布をみると、北部一帯は少なく、総雨量は一〇〇ミリメートルに達しないのに、南部一帯は一五〇ミリメートルを超え、特に横須賀市を中心とした地域と元箱根を中心とした地域で集中的に降雨があり、その総量は二〇〇ミリメートルを超え、多数の河川が氾濫し、横須賀市内では、床上浸水三三八二棟、床下浸水三三五四棟のほか全壊一一三棟、半壊六五棟、死者一三名、負傷者二四名を出す大きな災害となつた。

(二) 横浜地方気象台は右の気象の特性について次のとおり報告している。

(1) 朝鮮海峡から日本海に入つた台風と梅雨前線のため、八時間位の短時間内に二〇〇ミリメートルを超える大雨となつた。

(2) 夜半から朝にかけての時間帯に集中的に大雨が降り、県の南部一帯で多雨となり、特に元箱根と横須賀の両地域で多かつた。

(3) 横浜の最大一時間雨量は四二・五ミリメートルであるが、七月の観測記録としては昭和一五年以降で三位のものであつた。

(4) 横須賀では午前二時から同八時までの六時間に二二六・七ミリメートルの降雨量となり、午前五時から同六時までの一時間雨量は五九・四ミリメートル(なお、最大一時間降雨量は午前四時三五分から同五時三五分までの六八・二ミリメートル)の高い雨量となつた。

(三) 海上自衛隊横須賀地方総監部防衛部気象班の観測記録によれば、最大三時間雨量は午前二時五〇分から午前五時五〇分までの一五三・九ミリメートルであつた。

(四) これを観測値によつて詳述すると、横浜地方気象台横須賀観測所(横須賀市西逸見町所在)における観測結果によると、日降水量二五〇・五ミリメートル、午前零時から同一〇時までの一時間ごとの各定時観測結果による降水量は、次のとおりである。

午前零時から同一時まで

〇・五ミリメートル

午前一時から同二時まで

八ミリメートル

午前二時から同三時まで

三四・二ミリメートル

午前三時から同四時まで

四七ミリメートル

午前四時から同五時まで

四三・四ミリメートル

午前五時から同六時まで

五九・四ミリメートル

午前六時から同七時まで

二六・七ミリメートル

午前七時から同八時まで

一六ミリメートル

午前八時から同九時まで

一・九ミリメートル

午前九時から同一〇時まで

一三・四ミリメートル

(五) ちなみに、横浜地方気象台における昭和一五年から昭和五六年の間の日降水量及び日最大一時間降水量の上位一〇位は別表(一六)、(一七)のとおりである。

したがつて、これらの本件水害時の降雨量とを比較すると日降水量については三位を、日最大一時間降水量については一位を上回ることになる。

また、横浜地方気象台における昭和一五年から昭和四九年における最大三時間降雨量については、別表(一八)のとおりであり、これによれば本件水害時の横浜での降雨量は一三位に位置づけられるが、横須賀における前記最大三時間雨量は一位を大幅に上回ることになる。

二  浸水状況について

1  平作川・吉井川及び甲・乙・丙水路の溢水とその溢水流の流下について

(一) 原告らと被告国及び同神奈川県との間では本件水害時にA・B間において平作川が溢水したことは争いがなく、また原告らと被告横須賀市との間では本件水害時に平作川がA・B間から溢水し、吉井川の一部及び乙・丙水路も溢水したことは争いがない。

(二) 右当事者間に争いのない事実に、<証拠>並びに前掲八ミリフィルム一巻の検証の結果を総合すれば、次の事実を認めることができ、他にこれを左右するに足る証拠はない(なお、以下に述べる浸水状況については、証拠上定量的かつ一義的にこれを把握することは困難であり、各証拠を総合的に判断したうえでの認定・推認にとどめざるを得ない。)。

(1) 原告ら居住の平作川流域である舟倉、久比里地区には昭和四九年七月八日未明ころ強い降雨があり(その詳細は前記のとおり)、平作川の流量も漸次増加し、同日午前五時三〇分ころから同六時ころにかけて梅田橋下流付近から左右両岸に溢水が始まり午後零時ころには右溢水は終つた。

右溢水流は、梅田橋下流の左岸側においては工場等の立ち並ぶ一帯を経て、原告ら居住の前記D地区、C地区、E地区を通過してA地区、B地区に至り、F地区に流下した。

(2) 吉井川は同日午前五時ころまでに既に満水状態となり、そのころからほぼ全川にわたつて溢水し始め、溢水流は流域周辺に及んだ。

(3) 右平作川及び吉井川と相前後して甲水路、乙水路、丙水路もいずれも上流からの排水、雨水を疎通することができないまま溢水した(なお、甲水路は暗渠の排水路であつたので、開孔となつている部分からかなりの勢いで地表に雨水が排出された。)。そして、甲水路からの溢水流はA地区、B地区に、乙水路からの溢水流はD地区、C地区、E地区を経てA地区、B地区に、丙水路からの溢水流は平作川の溢水流とともにD地区、C地区、E地区を経てA地区、B地区に及んだ。

右溢水流はいずれも日の出橋付近の京浜急行路線の吉井川橋梁下(以下、「京浜急行路線吉井川橋梁部」という。)を経てF地区に及んだが、平作川、乙水路の下流部、丙水路の下流部の各溢水流の一部は吉井川上流の京浜急行路線橋梁付近から京浜急行久里浜工場付近にかけて京浜急行線路を越えたうえ同線路に沿つて流下してF地区に及んだ。

(4) 右溢水流は舟倉地区、久比里地区において早い所では同日昼ころから引き始め、地盤高その他の関係により遅い所では翌日に至つてようやく引くに至つた。

(5) 右同日の潮位は、満潮午前六時一三分及び午後七時三一分、干潮午前零時三九分、午後一二時三七分であつたため、午前の満潮と平作川及び吉井川の増水とが重なる状態となつた。

2  本件水害時の高水流量について

本件水害時における高水流量については、本件当時これを実際に測定した資料が提出されないため、降雨強度、流域面積、地形条件等から計算するほかないことになり、「平作川における昭和四九年七月洪水に関する解析」(<証拠>)においてもその一つとして等価粗度法を用いて推計計算がなされているが、このようにしてなされた計算結果も結局推測でしかなく、しかも計算過程においていかなる方式、いかなる係数を採用するかによつて計算結果に大幅な差異が生じることが考えられるから、本件においては客観的根拠とするに足る高水流量については確定することが困難である。

3  本件水害の主な原因等について

(一) 右認定のとおり、原告らの本件水害の被害は平作川からの溢水と、吉井川及び甲・乙・丙水路からの各溢水によるものであり、吉井川及び甲・乙・丙水路の方が先に溢水し、そこに平作川からの溢水流が合流して前記A、B、C、D、E、F地区に流入したものと認められるが、右合流の具体的状況、程度及びその割合等については本件証拠上これを明らかにすることはできず、またそれぞれの溢水流単独でいかなる程度の溢水被害が生じたかについても、本件に提出された証拠からは明らかにすることはできず、したがつてこれを確定・推認することも困難である。

(二) そして、右の点から、本件水害は、都市を流下する河川及び下水道からの溢水型の水害であつて、二級河川である平作川及び前記公共下水道である吉井川及び甲水路、乙水路、丙水路の流水能力と自然降雨による流水量との差異によつて生じたもので、他に特殊な要因その他の競合原因はみられず、単一の溢水型都市水害であるということができる。

第三  平作川の概況及び改修経過等について

一  当事者間に争いのない事実

1原告らと被告国及び同神奈川県との間では、次の事実は争いがない。

請求原因1(二)(1)、(2)、2(一)及び4(一)(1)記載の事実。吉井川が平作川に接していること、本件水害当時の平作川の流下能力は五郎橋付近で毎秒約一〇〇立方メートル、梅田橋付近で毎秒約八〇立方メートルであつたこと、本件水害当時夫婦橋付近に小屋、材木、同橋下に土砂がそれぞれあり、平作川にはパラペットが設置されていたが、それには切れ目があつたこと、内川入江は万治年間に砂村新左衛門が埋立てて新田を作つたと言い伝えられて、その際、平作川の前身となる水路が設置され、その下流は現在の夫婦橋付近で海に注いでいたこと。平作川は昭和四〇年ころからその流域において宅地開発が進められ、田畑、丘陵地等の一部が宅地化し、それらの土地の保水機能が低下したこと。

2原告らと被告横須賀市との間では、次の事実は争いがない。

請求原因1(二)(1)、(2)、2(一)、4(一)(1)記載の事実。平作川の夫婦橋直前の上流左岸にはパラペットが設置されており、右パラペットにはC、D、Eの各点にそれぞれ切れ目(二・六メートル、一メートル、四メートル)があつたこと。終戦時ころ、平作川右岸に国鉄横須賀線、左岸に京浜急行路線が、平作川沿いに現在の国道一三四号線に当る道路がそれぞれ敷設され、これらに舟倉町が取り囲まれるような状況になつたこと。夫婦橋下流地域は入江が宅地へと一変し、学校、住宅が建ち並ぶようになり、夫婦橋上流への京浜急行路線沿いに人家が増えるようになつたこと。終戦後本件水害時までの間に平作川の左右両岸は水田のほとんどが宅地に変わり、平作川及び国道沿いにあるのはほとんどが住宅・工場・事務所という状態になつたこと。

二  平作川の概況等について

右当事者間に争いのない事実に<証拠>並びに弁論の全趣旨を総合すると次の事実が認められ、他にこれを左右するに足る証拠はない。

1  平作川の流域及びその概況について

(一) 平作川は三浦半島第一の河川であり、その源は横須賀市坂本町及び三浦郡葉山町との境の同市池上付近であるが、勾配は小さく、延長は約二二・三キロメートル、流域面積約二七・九平方キロメートルであつて小河川であり、その流域については別紙図面(四)のとおりである。

(二) 平作川は、昭和六年六月から横須賀市衣笠の県道にかかる旧田中橋以下海に至るまでが旧河川法による準用河川に指定され、その後、昭和三四年七月から右田中橋の上流である衣笠栄町一五番地所在の国鉄橋梁以下右田中橋までの間が更に準用河川の指定を受けたが、昭和三九年一月一〇日新河川法の施行により、前記準用河川部分は二級河川となり、その区域の延長は七〇七〇メートル、河川流域面積は二六・〇六平方キロメートルである。

(三) そして、被告神奈川県の知事は平作川の二級河川部分を被告国からの機関委任事務として管理し、被告神奈川県は右管理費用を負担していることは前記のとおりである。

(四) 平作川は横須賀市内を流れているが、同市はその主要部分が三浦半島の中帯山地に属し、起伏の多い丘陵山地からなつており、年間平均気温は摂氏一五度内外であつて、降雨量も夏季に多く冬季に少なく、年間降雨量も一五〇ないし一六〇ミリメートルくらいであり、比較的少雨地帯である。

2  平作川の歴史及び水利等について

(一) 平作川下流は、江戸時代初期には広い入海であり、佐原川、大川、吉井川の三本の川が流入していたが、奥地は葦原であつて入江になつていたため、万治三年(一六六〇年)ころ、砂村新左衛門によつて開発に着手され、海岸に沿つて防波堤を築き、右三本の河川に堤防を築いて波浪及び河水の浸入を防いで開拓がなされ、八年を経て水田、畑地が形成され内川新田となつた。

(二) 平作川は、明治初期においては川幅が狭く、船やいかだがようやく下流の森崎付近まで通じていたに過ぎなかつたが、昭和七年以降の改修による川幅拡張後も河口付近は沿岸で漁業を営む者たちの漁業基地として利用され、河川区域内に舟溜りが存在しているほかは舟運の用には供されず、流域の水田に対する灌漑用水として利用されていたに過ぎない。その後も流域の市街化とともに利用は少なくなり下流の一部においてだけ右のような利用がなされているにとどまり、宅地造成等による開発により増加した排水の水路としての機能が主たるものになつていつた。そして、最近になり宅地開発が進むにしたがつて平作川の左右両岸は水田がなくなり、住宅・工場・事務所等に変化していつた。

3  舟倉・久比里地区の概況

(一) 原告らが居住するAないしF地区の位置は別紙図面(一)のとおりであり、F地区を除くといずれも平作川と周囲よりも高くなつている京浜急行の線路部分(なお、右線路部分は、久里浜方向から梅田橋にかけては平作川架橋部分が最も高く(標高八・五ないし八・六メートル)、梅田橋方面にかけて低くなり、C地区に接する辺りでは右線路部分以外と高低差がほとんどない状態になつている)によつて囲まれた地区になつており、F地区は右京浜急行の線路を境にしてA、B地区と接している。

(二) なお、平作川は右梅田橋から日の出橋までの間その左岸に沿つて国道一三四号線が通じており、この道路部分は周囲よりも若干高くなつているが、右道路部分に周囲よりも高くした堤防が築かれているものではない。なお、右国道は日の出橋を過ぎると右岸沿いに変わり、これに沿つて河口に通じている。

(三) 原告らの居住地区周辺は前記2のとおりかつて入江状になつていた地域が開発されて田畑となり、更にそこが住宅地域となつたため全般的に低地状となつているが、右住宅地域となる際にも、十分な地盤の造成等がなされないまま建物が建築されることが多く(戦前において横須賀周辺は軍の関係機関が多く、軍当局からその居住地の立退きを求められたため、やむなく右造成等も十分なしえないまま舟倉地区に土地を求め、そこに家屋を建築して居住した者も少なくなかつた。)、そのため雨水等の排水が十分でなく、しばしば小規模な浸水を起していた。そして周辺の宅地化が更に進むに従つて、降雨の際雨水等を滞留させる遊水池としての機能を果していた水田、農業用灌漑水路等が逐次減少・消滅し、これが更に右浸水頻度を増加させる要因となつていた。

4  原告ら居住地区周辺における平作川の特異点

(一) パラペットについて

ところで、日の出橋から京浜急行路線平作川橋梁部及び同橋梁部から夫婦橋にかけて、平作川左岸にはパラペット(一メートルないし一・八メートルの高さ)が設置されており吉井川と平作川の合流点、右合流点と京浜急行路線平作川橋梁部との中間、右合流点と旧人道橋(現在のものは本件水害後架け替えられた。)との中間、旧人道橋の架橋部(後三点がC・D・E点)がそれぞれ開口部(二・六メートル、一メートル、四メートル)になつていた。このパラペットは昭和三六年の集中豪雨による被害直後に設置されたものであり、護岸の最上部にコンクリート壁をたて、堤防護岸と一体となつて機能するものであるが、吉井川との合流部のほかの右開口部は、平作川の河口付近が漁業基地の様相を呈し、夫婦橋付近には漁船が係留されてそれへの荷役のためや漁業用資材の小屋が堤防内の河岸部にあり、それへの利便目的等を考慮して開口されていた。そして右開口部を遮断するため木製遮断板が作られてあり、原則として平作川の水位が上り右開口部から溢水するおそれがある場合には右遮断板によつて遮蔽し、逆に雨水等の内水により滞水し、平作川に右内水が流入する状況にある場合には開口状態にするようになつていた。そのため通常は開口状態になつており、右遮断板は神奈川県土木事務所のほか漁業協同組合に保管を委託されていたが、現実の保管状態及び運用の実態は必ずしも明らかでなく、本件水害当時も右パラペットが右遮断板によつて閉鎖されていた形跡は明確にはうかがわれない。

(二) A・B間について

A地点とB地点との間は、約二八メートルの均等な川幅(その下流も吉井川との合流点までほぼ同じ状態であつた。)を有し、左岸路堤は二割の傾斜(水平距離二メートルに対し、垂直距離一メートルの割合の傾斜)を有するものであつて、その上に国道一三四号線が通つている。またA地点付近は左右岸はほぼ同じ高さであつたが、全体としては右岸よりも左岸の方がやや高くなつており、右区間が左岸の他の区域に比較して構造上格段低くなつていた状態はみられなかつた。

(三) 夫婦橋付近について

本件水害当時平作川に架橋してあつた夫婦橋は、昭和二九年ころ設置され、橋脚が二本で三連の鉄筋コンクリートの橋梁を有していたが、その付近の河川断面は複断面形式と呼ばれる、川底が高水敷とそれよりも低いいわば基底部分の水路により構成され、平作川にあつては右高水敷は岩盤であり、右低水路は澪筋とよばれ船の運行に利用されていた。これは、かつての川底が大正一二年の関東大震災により隆起し、それまで漁港として利用されてきた入江が蛇行する水路に変わつたため漁業関係者たちの漁船等の就航のために人工的に右澪筋と呼ばれる水路を作り、合わせて護岸工事をしたためこのような形態になつたものである。そのため、夫婦橋直下には一六〇メートル位にわたつて右澪筋工事の際に作られた舟溜り(幅約六〇メートル)があり、その利便のための小屋、材木等が数か所にわたつて散在していた。これらは漁業用資材の物置、わかめ等海産物の干場、桟橋等であり、船を係留するため左岸にコンクリート製の斜面状の船引揚場もあり、約六〇メートルの川幅のうち約三〇メートルを占めていた。

(四) 旧人道橋について

夫婦橋の上流五〇ないし六〇メートルの地点に架けられた橋で通行人の利便を目的とする木橋であつたが、架橋部はパラペット上端よりも低くなつていた(パラペットはこの部分でも開口していた。)。

三  平作川の改修及びその経過等について

原告らと被告国及び同神奈川県との間においては、神奈川県が昭和三九年に平作川の河口において計画高水流量毎秒三〇〇立方メートルとする改修計画を立てたことは争いがなく、これに<証拠>及び弁論の全趣旨を総合すると次の事実を認めることができ、他にこれを左右するに足る証拠はない。

1  戦前から戦後にかけての平作川の改修経過について

(一)(1) 平作川は大正二、三年に上流部の支流である宇東川の一部を改修したが、大正一二年の関東大震災により下流の久里浜一帯が約一・五メートル隆起したため、ますます勾配が減少し、流水疎通が悪化し、年々洪水の被害流域及び被害金額共増加するに至つた。そこで、洪水防止工事が必要となり、そのためには平作川全体の改修、特に下流部の改修が必要となり、関係する市町村(当時の横須賀市、浦賀町、久里浜村、衣笠村)が組合を組織し、県費補助改修を行い、昭和七年から三か年継続事業として昭和九年に完成する予定で右改修工事を行つた。しかし、昭和九年に農村振興事業補助を打切られたため、約三分の一が残つたので更に昭和一〇、一一年にかけて土木費の県費補助を受けて一部施工し、昭和一二年からは県費工事となり、昭和一二ないし一四年にかけて右残部を施工して、ようやく完成した。

これにより平作川は衣笠地内の旧田中橋から久里浜地内の旧夫婦橋までの間の川幅が拡張され、堤防が高められ、屈曲も是正されて流域一帯の排水は良くなり、一応氾濫を免れるに至つた。

(2) その後、昭和一九年国鉄衣笠駅が開業するにあたり、同駅周辺が市街地として発展することが予想されたので、昭和一八年から昭和二〇年にわたり三年継続事業として衣笠土地区画整理事業が施行されることになり、これに伴つて平作川改修工事も一部施工する計画も立案され、昭和一九年度に着工されたが間もなく終戦となつて中断されていた。しかし、戦後も右地区の発展が顕著となつて右工事を早急に実施する必要が認められたので昭和二二年二月平作川改修工事(旧田中橋から黄金橋間の幅員拡張、屈曲是正等)のみが実施され、同年一一月に完成した。

(3) その後の平作川の改修事業は、昭和二五年から実施され、河川局部改修、堤防指定・維持修繕、河川流路整備、災害防除工事、災害応急復旧、小規模河川改修、都市河川環境整備等の事業により、法覆工、法部保護工、護岸コンクリート張、コンクリート擁壁工(パラペット)、掘削、堤体嵩上、浚渫工等の工種の工事が行われた。

(二) 平作川の改修は、戦前において一応の整備がなされたことから終戦後から昭和三〇年代に至るまでは既に整備された堤防機能の維持保全のための部分的な護岸工事あるいは治水機能を維持向上させるための河床掘削を中心とする工事がなされたが、比較的災害が少なかつたためそれ以上治水機能を高めるための再改修を実施する機運は生じなかつた。

(三) ところが、昭和三六年六月梅雨前線豪雨による平作川上流の衣笠栄町付近に溢水被害が生じたため、治水機能の向上を目的とする改修に着手され、昭和三九年から、既に市街化が進み、しかも河道も狭く水害が発生していた衣笠栄町の旧田中橋から黄金橋までの区間(五二〇メートル)が河川局部改良事業としてその改修工事に着手され、昭和四八年からは旧田中橋から東亜橋までの区間(三一〇メートル)が河川局部改良事業区域として改修工事に着手された。また中流部である五郎橋付近は上流部からの市街化が進み、しかも上・下流に比較して河道が狭かつたため、昭和四一年から森崎橋より国鉄横須賀線橋梁までの区間(六九〇メートル)が小規模河川改修事業等として改修工事に着手され、河川幅員拡張、護岸構造は計画流量に合せて行われた(もつとも、河道断面を増加し治水機能を高めるために必要な河床の掘下げは下流域の流下能力等との関係から後に回された。)。

(四) 本件水害当時までの平作川の改修率は後記暫定計画に対し約三三パーセント(神奈川県全体の河川改修率は約三〇パーセント)であつた(その後本件水害により河口から夫婦橋までの区間が災害復旧助成事業として、夫婦橋から湘南橋までが河川激甚災害対策特別緊急事業としてそれぞれ改修等の事業がなされ、昭和五四年度末で改修率は約六五パーセントとなつた。)。

なお、本件水害当時、神奈川県の河川担当者間においては、A・B間付近はなお改修を要する区域とされていたもののその上流部が更に未改修状態であるとされていたのに比較すれば一応整備され形態も整つている区域として扱われていた。

2  平作川における流下能力及び河川改修計画について

(一) 平作川については、昭和三九年に第一回の河川改修計画が作られたが、その内容については次のとおりである。

(1) 昭和三九年一一月当時神奈川県で把握していた平作川の流下能力は次のとおりである。

河口から二一メートル上流地点(開国橋)

毎秒一三五・六立方メートル

河口から三五〇メートル上流地点(№47)

毎秒五九・一立方メートル

河口から四二〇〇メートル上流地点(№84)

毎秒五七・一五立方メートル

河口から四四八一メートル上流地点(新五郎橋)

毎秒三〇・一七立方メートル

河口から五六三二メートル上流地点(東亜橋)

毎秒五九・四立方メートル

河口から六一〇〇メートル上流地点毎秒三九・四立方メートル

なお、平作川に架橋されている主要な橋梁の河口からの距離はおおよそ次のとおりである。すなわち、

開国橋(二一メートル)、夫婦橋(一〇〇〇メートル)、日の出橋(一五五〇メートル)、梅田橋(三〇〇〇メートル)、湘南橋(三六〇〇メートル)、五郎橋(四五〇〇メートル)、宮原橋(五三五〇メートル)、黄金橋(六五〇〇メートル)

(2) また年超過確率に対応する時間雨量及び日雨量(いずれも横須賀におけるもの)とそれに対応する計画高水流量として計算されたものは別表(一九)のとおりである。

なお、流量配分については年超過確率を五〇年に一回として平作川の流量配分を行い、これが行われた場合、配分後の計画日雨量については二五七ミリメートルという数値を用いて、昭和三三年九月の狩野川台風の日雨量と比較したうえ、右計算によれば既往水害にも十分対応できると考えられていた。

そして昭和四一年度から国鉄横須賀線橋梁より森崎橋までの六九〇メートルについて小規模河川改修事業として改修工事の着工がなされたが、右区間は当時流下能力が毎秒三〇立方メートルしかないためこれを毎秒一九〇立方メートルまで高めようとするものであつたところ、右治水機能は下流の治水機能に見合う形で順次段階的に高める方法により実施された。しかし、下流区域の治水機能を高める改修工事が進まなかつたため、前記のとおり河川幅員拡張、護岸構造は右計画流量に応じて一期工事として施行されても河床掘削は施行されなかつた。そして右一期工事は昭和四六年ころにほぼ完了に近づいたが、同年度に平作川全川の改修計画の基本となる平作川河道計画案が作成され、右計画に基づいてなお段階的に改修工事が進められるに至り、昭和四七年度には工事対象区間として国鉄横須賀線橋梁から真崎橋までの三〇〇メートルが新たに加えられて事業継続がなされ、この区間の第一期段階の施行は、本件水害後の昭和五三年度に至つて完了した。

(3) なお、右河道計画案による計画規模は将来構想として時間雨量九三・二ミリメートル(年超過確率一〇〇年に一回)とするが、平作川においては、それに至るまでの暫定計画では時間雨量七四・一ミリメートル(年超過確率三〇年に一回)に、更に、これに至る当面の計画では時間雨量五〇ミリメートル(年超過確率五ないし一〇年に一回)に設定された。

(二) また昭和四六年度立案の右平作川河道計画案によると基本高水、将来計画、実施計画(暫定計画)における計画高水流量は別表(二〇)のとおりである。

(三) 右計画当時に神奈川県で把握していた平作川の流下能力は次のとおりである(なお、本件水害当時の流下能力は五郎橋付近で毎秒約一〇〇立方メートル、梅田橋付近で毎秒約八〇立方メートルであつたことは、原告らと被告国及び同神奈川県との間において争いがない。)。

河口から五八〇〇メートル上流地点

毎秒七四・〇立方メートル

河口から四六〇〇メートル上流地点

毎秒四八・九立方メートル

河口から三八〇〇メートル上流地点

毎秒一〇二・二立方メートル

河口から二四〇〇メートル上流地点

毎秒七七・一立方メートル

河口から一二〇〇メートル上流地点

毎秒一三〇・三立方メートル

(パラペットを除外した場合 毎秒五六・三立方メートル)

河口から六〇〇メートル上流地点

毎秒一三〇・二立方メートル

(四) なお、本件水害後、河川激甚災害対策特別緊急事業として大規模な改修がなされたが、そのために新たに改修計画の立案又は従前の改修計画が変更されたものではなく、従前の改修計画に予算面の裏付けをして促進実施されたものであつて、実施計画そのものが現在のような規模・構造でなされるべく予定されていたものとみられる。

3  神奈川県の予算面からみた平作川の改修について

(一) 神奈川県知事が管理している河川は昭和五六年二月時点で一一一河川あり、その延長は約七五〇キロメートルであるが、そのうち約八〇河川は河川事業として改修することが必要とされ、その延長は約五三〇キロメートルに及んでいる。そして、右の約八〇河川についてその改修率を暫定計画(この暫定計画は年超過確率五ないし一〇年に一回の降雨量に基づいている。)に対する比率で計算すると昭和五四年度末で約三四パーセントであり、これを全部施行するにはなお約五五〇〇億円が必要であると試算されており、右暫定計画の年超過確率を更に引上げるならば必要改修費も更に増大することは明らかである(ちなみに、昭和五五年度の神奈川県の一般会計予算総額は約八三〇〇億円であり、そのうち河川改修費は二二〇億円であつた。)。

(二) 昭和四〇年度から昭和四九年度までの一〇年間に神奈川県知事が管理している河川に投入した総費用は、境川、大岡川、鶴見川、柏尾川、帷子川の五河川については大規模な水害をもたらし、又はその危険の大きかつたこともあつて平均約七〇億九七〇〇万円であるが、これに対してこの間水害発生のなかつた平作川については約一二億六三〇〇万円である。

(三) また流域面積二〇〇平方キロメートル以上の大河川と二〇〇平方キロメートル未満の中小河川とに分けたうえ、一河川当りの一〇年間(昭和四〇年度から同四九年度まで)の平均投入額及び平均被害額とを比較すると、右大河川の平均投入額が約七八億〇七〇〇万円、平均被害額が約二〇億八九〇〇万円、県内東部河川のうち横浜市・川崎市内の河川については、平均投入額が約一三億円、平均被害額が約五億九〇〇〇万円、その他の県内東部河川(平作川を含む相模川以東の河川)の平均投入額が約七億七三〇〇万円、平均被害額は約一億八二〇〇万円、県内西部河川の平均投入額は約五億二〇〇〇万円、平均被害額は約二億三〇〇〇万円であるが、これを平作川についてみると投入額は右のとおり約一二億六三〇〇万円であるのに対し、被害額は約一億六八〇〇万円である。

(四) ところで、県内の河川を流域面積二五ないし三五平方キロメートルに限定すると該当河川一二のうち、平作川は流域面積について一二位であるが、流域の人口密度は四位であり、昭和四〇年度から昭和四九年度までの一〇年間に投入された総費用は昭和四九年度の価格換算(以上、(二)、(三)につき同じ)で約一二億六三〇〇万円であつて五位に当る。

(五) 平作川の右工事の費用は、一メートルの改修につき約八〇万円を費すと計算されるが、昭和四九年度以降の河川災害復旧助成事業が約一二億円、河川激甚災害対策特別緊急事業が約四〇億円合計約五二億円の予算で河口から湘南橋までの改修工事が行われ、更に湘南橋から上流についても改修が継続され、一般改修費が投入されて改修工事が行われている。

4  戦後における河川改修の経過について

(一) 改修経過

(1) 昭和二〇年から昭和二四年にかけて

この時期は戦争直後の国土の荒廃に加えて、大型台風が相次いで来襲したが、窮迫した国内経済のため、右被害の復旧工事による原状回復に重点が置かれ、被害のひどかつた四河川については治水機能向上のための改修工事も行われた。

(2) 昭和二五年から昭和二九年にかけて

この時期も台風の来襲があり、神奈川県内の河川に溢水被害が続いたので、これに対応するため二〇河川について治水機能を高めるための改修事業にも着手されるに至つた。

(3) 昭和三〇年から昭和三四年にかけて

この時期は狩野川台風をはじめ毎年台風が来襲し、各地に被害が発生し、未曾有の災害をもたらしたが、これらの災害に対処するため、河川の治水機能を高める必要から災害復旧助成事業、河川等災害関係事業その他各種の改修事業に積極的に着工し、改修に着手された河川は三〇河川に及んだ。

(4) 昭和三五年から昭和三九年にかけて

右昭和三三年、三四年に狩野川台風、伊勢湾台風により大被害が発生したため、昭和三五年に治山治水緊急措置法が制定され、治水事業一〇箇年計画が閣議決定されるとともに本格的改修事業に着手し、県内三八河川について改修工事が行われ、折りからの高度成長に伴つて事業費も飛躍的に増大した。

(5) 昭和四〇年から昭和四四年にかけて

この時期は右治山治水緊急措置法に基づく第二次治水事業五か年計画をもとに、より広範囲に河川改修が実施され、四二河川について改修工事がなされ、事業費も増大した。

(6) 昭和四五年から昭和四八年にかけて

従前の改修事業により治水機能が向上し洪水氾濫面積は減少したが、新たに中小河川を含むいわゆる都市型水害といわれる現象が目立つところとなり、そのための対応策として昭和四五年に都市小河川改修費補助制度が創設され、右制度による一四河川の改修工事が行われ、事業費も増大した。

(二) 改修の達成目標

河川改修工事の達成目標(将来計画)は前記のとおり、大河川については年超過確率一〇〇年ないし二〇〇年に一回、中小河川は三〇年ないし一〇〇年に一回規模の降雨量に耐え得ることであり、中小河川の右降雨量は時間雨量七四ないし九三ミリメートルであるが、当面目標は五年ないし一〇年に一回程度、すなわち時間雨量で五〇ミリメートル程度とされており、二級河川である平作川及びその他の河川についても右と同一の基準により将来計画、暫定計画及び当面の目標計画が立てられ、その後も右計画は特に変更されることなく、順次右計画に基づく改修工事が行われてきた。

(三) 平作川と他河川との予算面での比較

神奈川県下では東部(相模川以東)の中小河川のうち境川、大岡川、鶴見川、柏尾川、帷子川がしばしば水害により甚大な被害を生じさせていたため、昭和四〇年代には右五河川に被告神奈川県の河川関係の予算の四割弱が投入され、その結果右五河川の水害の回数は減少したが、他の河川に比べるとまだ溢水の危険が高く(現に昭和五七年に境川、柏尾川、帷子川は溢水し、浸水被害が生じている。)、依然として重点的に改修を行う必要があると考えられている。これに対して平作川は、昭和三六年以降本件水害時までは溢水はなく、神奈川県は他の溢水により浸水被害を惹起している河川に優先して大規模な河川改修工事を起工することはしなかつたが、流域が二五ないし三五平方キロメートルの県下一二河川のうち、特に多額の費用が投入されている早淵川、大岡川を除くと平瀬川、恩田川とほぼ並んで予算の投入(前記のとおり右一二河川中予算投入額の順位では五位)がなされている。

第四  吉井川及び甲・乙・丙水路の概略と下水道整備について

一  当事者間に争いのない事実

原告らと被告横須賀市との間では、次の事実は争いがない。

吉井川が、そのほとんどの部分が横須賀市舟倉町を流れ、その河口部分で同市久比里一丁目を経て平作川に流入する全長一〇七〇メートルの雨水・汚水を排除する開渠の水路であるが、その形状は不規則でしかも勾配がほとんどなく、平作川との合流点では満潮の影響をかなり受けること。その管理は被告横須賀市が行つていること。甲水路が横須賀市舟倉町の東方に位置し、長銀・辰巳両団地の雨水・汚水を排除するために設けられ、吉井川をサイフォン方式によつてくぐり抜けて平作川に注ぐ、直径が内径一〇〇〇ミリメートルの公共下水道であり、被告横須賀市が管理していること。乙水路が同市舟倉町の西北部に位置し、京浜急行車両工場の堀の水を受けて平作川に注ぐ、雨水・汚水を排除するための開渠であり、被告横須賀市が管理していること。丙水路が池田団地造成後、同団地の雨水を排水して平作川に注ぐようになつた一部開渠で大部分が暗渠であり、被告横須賀市が管理していること。終戦後から本件水害発生までの間に、かつて平作川と並行して走つていた水路が原形を留めない程に消えてなくなり、これに対応する水路としては吉井川上流の京浜急行車両工場を取り巻いて平作川へと通じているほぼ現在の乙水路と梅田橋上流に通じている丙水路くらいに順次なつたが、いずれも直角に屈折したり、国道一三四号線の下をくぐり抜ける不自然な形状になつていたこと。吉井川のほぼ東側にあつた山林が開発されて池田団地が造成されたこと。被告横須賀市が昭和四一年に追浜地区に都市下水路及びポンプ場の設置計画を立てて事業決定につき建設大臣の認可を得たこと。同市が舟倉地区の雨水・汚水の排水計画を昭和四八年度に決定したこと。

二  吉井川及び甲・乙・丙水路の概略

右当事者間に争いのない事実に<証拠>並びに弁論の全趣旨を総合すると次の事実を認めることができ、他にこれを左右するに足る証拠はない。

1(一) 吉井川

(1) 吉井川はそのほとんどが横須賀市舟倉町を流れ、その河口部で同市久比里一丁目を経て平作川に流入する全長一〇七〇メートルの雨水・汚水を排除する開渠の水路であるが、その形状は不規則で、幅員も所によつて広狭にかなりの差があり、特に京浜急行路線橋梁部分がくびれるように狭くなつており、しかもその勾配はほとんどない水路である。そして、吉井川は昭和四八年度の横須賀市公共下水道計画においては下町処理区久里浜第一地区舟倉排水区の雨水第二幹線(なお、甲第一六号証、丙第一〇号証は横須賀市公共下水道計画図であるが、同図上には吉井川について雨水第三幹線、乙水路について雨水第二幹線と表示されているが、これは吉井川が雨水第二幹線、乙水路が雨水第三幹線の誤りである。なお、丙第二九号証はその後の計画変更のものである。)になつている。なお、右昭和四八年度の計画図は別紙図面(五)のとおりである。

(2) 吉井川については、本件水害時まで横須賀市水道部において昭和三五年三月から既設水門の流れを円滑にするための排水整備工事、塵芥取除用格子の取付、門扉改良のための水門改良工事、清掃工事、護岸石積工事、土砂浚梁工事等を実施した。そして、昭和四八年一二月から吉井川の河口付近に排水機能を高めるための舟倉ポンプ場用地の買収にかかり、昭和四九年一月から舟倉ポンプ場設置のため地質調査、敷地測量等を委託し、同年三月用地買収に伴う建物移転補償等を行つてきたところである。

(二) 甲水路

甲水路は横須賀市舟倉町の東方に位置する長銀団地、辰巳団地の雨水・汚水を排除するために設けられた暗渠であり(中間に地表への開口部人孔が少なくとも二箇所設けられてあり、開口部分には鉄蓋がはめられ、裏面に中心棒(中央スピンドル)に固定されたアームにより外枠に止められる構造となつていて、地表への溢水を防いでいるが、前記のとおり雨量によつては、その圧力によつてかなり外部に溢水するとみられる。)、右長銀団地が昭和四一年ころ造成された際、被告横須賀市当局において右造成業者に対し、吉井川が排水不良であり、しかも潮位の影響を受けるため、開発造成地の排水等が流入したのではこれを十分疎通し得なくなるおそれがあるとして右造成地から直接平作川に圧送するように行政指導した結果敷設されたものであり、これをその後造成された辰巳団地の建設担当業者が右長銀団地の業者と同じであり、かつ右水路になお余裕があると計算されたので右甲水路が利用されるに至つたものである。なお、長銀団地の排水管径の最大のものは一二〇〇ミリメートルであり、辰巳団地のものは七〇〇ミリメートルであるから、これを集水する甲水路は本来一三五〇ミリメートル位の排水管径であるべきであるが、吉井川・国道一三四号線をくぐり抜けて平作川に流入させるサイフォン装置を用いているため、管径は一〇〇〇ミリメートルになつている。そして、甲水路の流下能力は毎秒二・四立方メートルであり、流域面積は約一六・五七ヘクタールである。なお、右水路は雨水・汚水を分離していないので前記下水道計画では別個に汚水用幹線を設置することが予定されている。

(三) 乙水路

乙水路は横須賀市舟倉町の西北部に位置する開渠であるが、かつては平作川左岸に農業用灌漑水路として網の目状に水路があつたが水田が宅地化されるにしたがつてなくなり、昭和三三、三四年ころ京浜急行車両工場が造成される際、右灌漑水路はまとめられて現在のように右車両工場を取り巻いて国道一三四号線をくぐり抜けて平作川に流入する流路に付け替えられ、そのため、乙水路は直角に屈折する形状となつている(そして、本件水害後、平作川との合流点付近に乙水路の流下能力を高めるためのポンプ場建設が予定され、それとともに水路整備がなされている。)。なお、乙水路は、横須賀市都市下水道計画においては下町処理区久里浜第一地区舟倉排水区の雨水第三幹線(この点については前記1参照)とされている。

(四) 丙水路

丙水路は横須賀市池田町四丁目と同町五丁目の境界付近に位置し、池田団地が造成された際それまであつた水路を同団地の雨水・汚水を排水するため新たに設置しなおされた、その一部が開渠に、その他の大部分が暗渠になつている水路である。これは昭和四四年に池田町に団地が造成される際、被告横須賀市の行政指導によつて作られたもので、雨水・汚水の両方を流下させる合流形式であり、時間雨量六〇ミリメートルとして作られている。なお、丙水路は従前の農業用灌漑水路を利用して作られたため、形状が不自然に屈折した部分があり、溢水の危険もあるとして昭和三五年に地元からこれを直線化して欲しい旨の陳情(昭和三三年九月の狩野川台風による水害に関して吉井川及び乙・丙水路を直線化して欲しい旨の横須賀市議会宛のもの)がなされていた(本件水害及び昭和五〇年の浸水後、平作川の改修が行われた際(昭和五三、五四年)、これに関連して直線化され、これによりそれまで梅田橋上流であつた平作川への排水口が同橋下流になつた。)。なお、丙水路は横須賀市都市下水道計画において下町処理区久里浜第一地区池田排水区の雨水第一幹線とされている。

2  下水道の供用開始の告示について

吉井川及び甲・乙・丙水路は、前記のとおり被告横須賀市がこれを管理し、下水道計画網に組入れるなどしており、都市排水路となつているが、本件水害当時、その供用開始の告示はいまだなされていなかつたため、供用開始の告示がなされていれば、横須賀市下水部施設課維持管理係が管理すべきであるところ、同市下水部河川課が事実上管理していたのであり、このように被告横須賀市において、吉井川及び甲・乙・丙水路について下水道計画網に組入れるなどして事実上管理を行い、都市排水路になつている以上、吉井川及び甲・乙・丙水路については供用開始の告示がなされていなかつたとしても、国家賠償法二条にいう公の営造物としての性格を失うものではなく、また、同被告は右公の営造物としての吉井川及び甲・乙・丙水路の管理者であるというべきである(最高裁判所昭和五九年一一月二九日第一小法廷判決・民集三八巻一一号一二六〇頁参照)。

3  下水道整備について

(一)(1) 被告横須賀市においては、昭和一九年に下水道関係の事業計画を立てたが、その後戦争を経て、昭和三二年に新計画を立案した。これは従前の計画をある程度縮少したうえで、計画を実施できる見通しのある地域に限定するように変更し、昭和三三年から昭和三九年にかけて下水道の整備を行つたが、昭和三八年八月に更に右計画を変更し、昭和四三年及び昭和四八年に順次追加変更がなされてきた。

(2) そして、横須賀市内では追浜地区が人口密度が高く、しかも降雨時にしばしば浸水するため、この他市内には部分的に排水不良箇所はあつたものの、右追浜地区の浸水対策として昭和四一年に同地区を排水区として予算を優先的に投入した。

(3) また、昭和四七年に市内の大部分を含む下水道計画が立案され、昭和四八年三月三一日最終的に事業計画変更についての建設大臣の認可がなされた。そして、それまで計画に入つていなかつた舟倉地区についても雨水排除と汚水処理を目的とした計画が立案され、これにより約一三億円をかけて舟倉ポンプ場が吉井川河口付近に設置され、昭和五二年から操業するに至つた。これは吉井川は満潮時に平作川から逆流する河川であつて、増水時に水門を閉じると平作川への排水ができなくなり、しかも自然排水そのものが良くない状態であつたため、これらを解決する目的で作られたものであるが、これは吉井川の流水をポンプによつて平作川に流入させることによつて吉井川の排水能力を高めるものであるため、右ポンプ場が設置された後でも平作川が満水状態になつた場合には当然のことながら右排水機能は果せないことになる(なお、右舟倉ポンプ場の計画流量は昭和四八年には毎秒三・六立方メートルであつたが、昭和五三年には毎秒九・三立方メートルに変更された。)。

(4) その後、更に昭和五三年に舟倉地区の排水を完全なものにするため建設大臣の変更認可を得て乙水路の平作川への河口付近に舟倉第二ポンプ場を設置することになり、用地の手当がなされ、昭和五四年から約四〇億円をかけて建設がなされた。

(5) 右舟倉のポンプ場はいずれも時間雨量六〇ミリメートルの降雨量を想定しているが、これは当時横浜市の下水道の排水能力の基準と同様である(しかし、右舟倉(第一)ポンプ場操業後である昭和五六年一〇月に台風によつて日雨量二八八・五ミリメートル、時間雨量六六・五ミリメートルの降雨があり、乙水路の上流で一部浸水が生じた。)。

(6) なお、被告横須賀市における下水道整備率は昭和四九年当時約三〇パーセントであつたが、昭和五五年には約四〇パーセントになつた(ちなみに一般都市では右整備率は平均一九パーセントであり、政令指定都市では七二パーセントである。)。

(7) 被告横須賀市は、昭和四三年ころ久里浜一帯の都市下水道については、平作川の河床がやや高いため内水排除を考えなければならず、そのためにはポンプ場施設が必要であるが、費用がかかるため(昭和四三年当時の試算で幹線ポンプ場に約四〇億円、久里浜の旧市街地の都市下水路に約二億五〇〇万円、舟倉(地区の)都市下水路が約一億五〇〇〇万円、久里浜工業団地周辺の都市下水路が約三億八〇〇〇万円)、昭和四六年度までの新整備計画には早期採用しない方針を表明していたが、昭和四五年に至つて、久里浜地帯の排水計画にあつては財政面の負担はかかるが将来の公共下水道事業を予想するとポンプ場施設の設置しか抜本的対策はなく右方針をとることを明らかにするに至つた。

(二) 本件水害当時までの横須賀市における下水道の状況について公的資料において指摘されたところ及び昭和四八年三月建設大臣の認可を受けていた公共下水道事業計画のうち本件水害地区に関する部分は次のようなものであつた。

(1) 昭和四二年七月横須賀市発行の「横須賀市の現状分析結果概要(総合開発計画の基礎資料)」(前掲丙第一号証)には総括の部「土地利用上の問題」のうち「市街地隣接地のスプロール化」の項目で、「道路、排水、災害発生の面で問題をはらんでいる。また雨水流出を多くする結果平担部と丘陵地の接点付近における水害を発生している。」と指摘し、各論の部「上下水道」の項目で、「市街地周辺のスプロール的宅地開発は雨水流出係数を倍増するが、これらの排水計画は、十分検討しなくてはならない。丘陵地上の宅地開発は、丘陵地と平担部の境界においては、極地的な水害を発生するが、それに対する河川改修の状況は活発とは言えない。」とし、「災害」の項目では「水害は人口増の多い衣笠、浦賀、大津地区の谷戸内での発生が多い。また西部地区、平作川の丘陵地と平担部との出合いに多く、今後の平担部の排水問題と関連するであろう。」と地域をやや具体的に指摘をしている。

(2) 昭和三九年横須賀市防災会議発行の横須賀市地域防災計画(前掲丙第一一号証の一)第二節水害予防計画の「下水道」において、既設下水道の維持修繕と並べ「ポンプ場として、下水道整備五ケ年計画(昭和三九年度より実施)に基づき下町南部処理区に日の出ポンプ場を設置し、降雨強度六〇ミリメートルとした計画流量を定め、豪雨時の施設の安全を計るとともに、排水能力を十分発揮できるよう計画する。」としている(その後本件水害時まで、数次の修正がなされた。)。

(3) 昭和四八年三月三一日建設大臣の認可を受けた公共下水道事業計画変更(前掲丙第一二号証の一)には「ポンプ施設及び処理施設については既計画ポンプ場四ケ所に雨水排水及び汚水中継を目的としたポンプ場一一ケ所を追加し一五ケ所とする。処理場については既計画処理場二ケ所に追浜処理場を追加し三ケ所とする。」と記載され、右添付の公共下水道事業計画説明書中排水系統及び処理区域の記載には、「久里浜第一地区を舟倉、池田、長瀬の三排水区に分割する。舟倉排水区汚水第一幹線は京浜急行線と平作川にはさまれた低地の下水を流集し、調整池を経て国道一三四号線を北上し、池田排水区汚水第一幹線へ流入する。汚水第二幹線は日建団地及びその周辺汚水を流集しながら舟倉ポンプ場へ流下する。汚水第三幹線は県道浦賀久里浜停車場沿い及び久比里二丁目付近の汚水を流集し、舟倉ポンプ場へ流下する。舟倉ポンプ場で中継された汚水は圧送管にて調整池へ圧送される。当排水区低地の雨水は在来水系を利用した雨水専用水路又は専用管にて舟倉ポンプ場へ流下しポンプ排水し、平作川へ放流する。高地区の雨水については雨水専用水路又は専用管にて直接平作川へ放流する。池田排水区汚水第一幹線は、舟倉排水区汚水第一幹線及び池田排水区汚水第二幹線を流入して国道一三四号線沿いの汚水を流集し、根岸ポンプ場に流下する。汚水第二幹線は池田町一―二丁目の汚水を流集し、途中で汚水第三幹線を流入して池田町五丁目地先で汚水第一幹線へ流入する。排水区の雨水については雨水専用水路又は専用管にて直接平作川へ放流する。この三排水区の処理区域は舟倉町全部、池田町、長瀬、久比里、馬堀町、吉井、浦賀の一部で下町処理場で処理される。なお、長瀬排水区全部と舟倉排水区の高地区については将来計画とする。」と記載されている。

4  吉井川及び甲・乙・丙水路の排水能力等

(一)(1) 吉井川及び甲・乙・丙水路の排水能力は時間当たりの降雨量六〇ミリメートルに対応して計画されているが(なお、右雨量は横浜測候所の過去二〇年間の一位か二位の数値を基本に決めたものであつて、県内では横浜市がこれと同一の基準を定めており、九州、四国地方ではこれを超えるところがある。)これは右降雨量を基準にし、その範囲ならば耐えられるものとして下水道事業計画の立案がなされたものであるが、右計画立案には、県内状況の関係では神奈川県の、全国レベルの関係では建設省の各関係者と協議したうえで定め、前記のとおり建設大臣の認可を受けた。なお、本件水害後舟倉第二ポンプ場を設けるにいたつたが、これはその後の降雨状況から時間当たり六〇ミリメートルを超える降雨があることの状況を考慮し、平作川の改修とも相まつて、吉井川上流に低地排水を更に完全にするためポンプ場を設置し強制排水をしようとしたものである(ただし、前記一般的基準を修正した形跡はない。)。もつとも、右完成後昭和五六年一〇月二二、二三日の集中豪雨において乙水路の一部が溢水したが、当日の時間雨量は六六・五ミリメートル、日雨量は本件水害時を上回る二八八・五ミリメートルであつた。

(2) 吉井川については、昭和四一年当時その排水能力が低いので長銀団地造成に当たつて甲水路は吉井川に流さず、平作川に放流するようにしたのであるが、昭和四六年の調査で吉井川の流下能力は毎秒二、三立方メートルとなつていた(もつとも、昭和五二年の計画では毎秒三・六立方メートルを約一〇立方メートルとしたが、これは平作川の改修が進んだのと吉井川が満潮のとき扉をしめて全部ポンプで吸い上げることなどを考慮したことによることがうかがわれる。)。

(3) 甲水路の計画流出量は毎秒約一・八立方メートルであるのに対し、流出能力は毎秒約二・四立方メートルでまだ毎秒約〇・六立方メートルの余裕があり、前記のとおり長銀団地からの流入管の内径は一二〇〇ミリメートル、辰巳団地からのそれは七〇〇ミリメートルであり、これを一本にまとめると管の内径は一三五〇ミリメートルになるところ、現実には一〇〇〇ミリメートルになつているが、これは下流においてサイフォン装置があり、その中の流速を二、三割増にするのが普通であり、時間雨量を前記六〇ミリメートルとし、流出係数を建設省の指導方針にほぼ合致する〇・五とし、勾配は七五パーミルとして計算し、長銀団地、辰巳団地の流出量と甲水路と流下能力を比べればなお前記毎秒〇・六立方メートルの余裕が有ると判断されたことによるものである。

(4) 丙水路の流下能力

丙水路の計画流量は毎秒約五・五立方メートルに対し流下能力は毎秒約八・四ないし約七・二立方メートルと算定されていた。

第五  平作川・吉井川及び甲・乙・丙水路の危険性に対する被告らの認識について

<証拠>を総合すると次の事実を認めることができ、他にこれを左右するに足る証拠はない。

一  防災計画

横須賀市における防災計画は次のとおりであつた。

1昭和三九年度横須賀市地域防災計画及びこれに添付された神奈川県横須賀土木事務所水防計画(災害の防除を完全に実施することは現状では困難であるが逐次整備するとして計画されたもの)によれば、河川関係の重要水防区域及び危険箇所として平作川沿岸地区及び平作川・吉井川合流点が指摘され、河口から東亜橋までは日雨量一五〇ミリメートル以上あつた場合又はそれが予想される場合には警戒態勢に入ると計画されていた。そして、河口から東亜橋上流までの延長五六〇〇メートルについては昭和一六年度に改修工事が施行されたとしながら、近時河川周辺地の高度利用が進められ、急速な発展により遊水地域がなくなり、その分河川の負担が激増する傾向があり、特に公郷町付近にそれが著しいから、河口から東亜橋までの延長五五〇〇メートルについては詳細に測量調査を進め、総合的な検討を加えて将来の被災防止対策に用いるとの方針が立てられた。また、水害危険区域として、前記のとおり平作川については衣笠栄町地先の左右岸延長五〇〇メートルが河川断面少なく常に溢水の危険が大きく、重要度Aとされ、内川新田地先左右岸延長一〇〇〇メートルが溢水氾濫の危険があり重要度B(久里浜地先の左岸が波浪による浸触に対する注意が必要とされ、重要度C)とされている。

2その後、右防災計画は修正されたが、昭和四四年度においては、平作川については近時特に河川流域区域において土地の高度利用から宅地造成その他の開発が行われ、河川の負担が激増しているので、河川区域全般にわたつて河川計画の再検討を行い特に緊急を要する箇所から工事施行をするように計画立案され、浸水危険箇所として、原告ら居住地付近では横須賀市久比里二丁目五番一一号及び同二丁目七番二号(被災予想家屋二四棟、三八世帯)、同市舟倉一三五〇ないし一三六〇番地(被災予想家屋四〇棟、六〇世帯)、同市舟倉一九九六番地(被災予想家屋九棟、九世帯)が指摘されていた。

3昭和四七年度の右防災計画の修正については、前記のとおり右同所がいずれも浸水危険箇所として指摘(ただし、同市久比里二丁目五番一一号及び同所二丁目七番二号の予想被災家屋が三〇棟、四五世帯に増加)されていた。

二  建設行政県市連絡会議

神奈川県と横須賀市との間では、建設行政に関して担当者による連絡会議を開催し、相互に要望を提出し合つて意見交換を行つているが、昭和四四年度においては、平作川に関連して神奈川県から横須賀市に対し、県道野比葉山線の新五郎橋の架替工事を予定しているからこれについての協力要請と上流部の市管理部分の美化清掃対策の要請が提議され、横須賀市からは、上町地区の公共下水道整備区域が拡大されていることに伴う改修促進要請が提議された。昭和四六年度における横須賀市からの提出議題は、平作川に関連して市の公共下水道計画は昭和四七年度において第一次事業が完了するが、引続き平作川沿川の第二次計画を樹立する予定なので、五郎橋から上流部の改修を積極的に促進するよう要請し、昭和四七年度においては、横須賀市は、平作川に関連して昭和四六年度の提出議題と同様、市の公共下水道計画は昭和四七年度に完了することを目標に実施中であり計画どおり完了する予定であるが、平作川沿岸の久里浜工業団地付近の雨水排除整備も同様に実施しているから、平作川の整備(護岸・浚渫等)を積極的に促進して欲しい旨を要請した。これに対し、神奈川県からは、昭和四六年度は二二〇〇万円で平作川の浚渫を実施することになつており、昭和四七年度もこれを要望しているが、平作川の計画流量は黄金橋で毎秒八〇立方メートル、五郎橋で毎秒一九〇立方メートル、河口で毎秒三〇〇立方メートルであり、五郎橋から下流部は一応既成と考えているが、計画的に整備したいとの回答がなされていた。

三  横須賀市議会の審議

1横須賀市議会においては、昭和三三年九月の狩野川台風による被害以降、機会あるごとに平作川の水害対策について質疑応答がなされ、平作川の管理者である神奈川県に対し、維持・修繕のほか改修を実施するように要請するとともに、浸水地帯への対策として都市下水道事業の実施が必要であるので、横須賀市としては本格的に下水道事業に取組むことなどが繰り返し討議されてきた。

2(一)  横須賀市長は、本件水害後の昭和四九年七月の市議会において、神奈川県土木部の資料によれば、平作川は時間雨量五六・一ミリメートル、日雨量二三一・五ミリメートルが限界となつており、また、黄金橋辺りから水量配分によりバイパスを作ることは財政的に非常に困難であつて、右計画は検討を要するので、夫婦橋周辺を拡幅して流下能力毎秒二〇〇立方メートルを毎秒四二〇立方メートルに増大させることを検討しているようである旨答弁している。

(二)  なお、産業発展に伴う市内の需要に加えて京浜地区のベツドタウンとしての機能を果たすため、横須賀市内の山地、丘陵の宅地造成が進み、人口も衣笠地区の増加率が高いほか浦賀地区、久里浜地区、北下浦地区、西部地区の順に増加し、市の中心部周辺にいわゆるスプロール現象が生じていたが、横須賀市議会においても、右の宅地造成等による開発行為の規制の問題が再三にわたつて取り上げられたが、横須賀市長は現行法上宅地造成が適法に行われた以上は直ちにこれを規制することは困難であり、行政指導の面での開発規制、開発抑制が考えられるもののそれにも限界がある旨答弁していた。

第六  平作川・吉井川及び甲・乙・丙水路の設置・管理瑕疵について

以上認定した事実に基づいて、平作川・吉井川及び甲・乙・丙水路の設置・管理瑕疵について、以下検討する。

一国家賠償法二条一項の公の営造物の設置又は管理の瑕疵とは、営造物が通常有すべき安全性を欠き、他人に危害を及ぼす危険性のある状態をいい(最高裁判所昭和五六年一二月一六日大法廷判決・民集三五巻一〇号一三六九頁参照)、このような瑕疵の存否については、当該営造物の構造、用法、場所的環境及び利用状況等諸般の事情を総合考慮して具体的・個別的に判断すべきもの(最高裁判所昭和五三年七月四日第三小法廷判決・民集三二巻五号八〇九頁参照)であつて、本質的にはすべての営造物において右の基準のもとに判断されるべきものであるが、右の判断の対象には、右営造物が右の安全性を保持すべく具体的に機能するための機構のもとにおいて通常期待されるべき安全性の確保のための危険回避義務の懈怠の有無及び危険回避可能性の有無についての判断も含まれるものと解される。

二  河川(平作川)管理の瑕疵について

1  河川管理について

河川の管理については、道路その他の営造物の管理とは異なる特質及びそれに基づく諸制約が存するのであつて、河川管理の瑕疵の存否の判断にあたつては、右の点を考慮すべきものといわなければならない。すなわち、河川は、本来自然発生的な公共用物であつて、管理者による公用開始のための特別の行為を要することなく、自然の状態において公共の用に供される物であるから、通常は当初から人工的に安全性を備えた物として設置され、管理者の公用開始行為によつて公共の用に供される道路その他の営造物とは性質を異にし、もともと洪水等の自然的原因による災害をもたらす危険性を内包しているものである。したがつて、河川の管理は、道路の管理等とは異なり、本来的にこのような災害発生の危険性をはらむ河川を対象として開始されるのが通常であつて、河川の通常備えるべき安全性の確保は、管理開始後において予想される洪水等による災害に対処するため、堤防の安全性を高め、河道を拡幅・掘削し、流路を整え、又は放水路、ダム、遊水池を設置するなどの治水事業を行うことによつて達成されていくことが当初から予定されているものということができる。

しかも、右治水事業は、その性格上時間的にも特に長期間を要するとともに財政的にも全国に多数存在する未改修河川及び改修不十分な河川についてこれを実施するには莫大な費用を必要とするから、本質的には議会が国民生活上の他の諸要求との調整を図りつつその配分を決定する予算のもとで、各河川について過去に発生した水害の規模、頻度、発生原因、被害の性質等のほか、降雨状況、流域の自然的条件及び開発その他土地利用の状況、各河川の安全度の均衡等の諸事情を総合勘案し、それぞれの河川についての改修の必要性・緊急性を比較しつつ、その程度の高いものから逐次これを実施していくほかはないという制約がある。また、右治水事業の実施にあたつては、当該河川の河道及び流域全体について改修等のための調査・検討を経て計画を立て、緊急に改修を要する箇所から段階的に、また、原則として下流から上流に向けて行うことを要するなどの技術的な制約もあり、更に流域の開発等による雨水の流出機構の変化、地盤沈下、低湿地域の宅地化及び地価の高騰等による治水用地の取得難その他の社会的制約があることも看過することはできない。しかも、河川の管理においては、道路の管理における危険な区間の一時閉鎖等のような簡易、臨機的な危険回避手段を採ることもできないのである。

2  河川改修計画と過渡的安全性について

(一)  このように、河川管理には諸制約が内在するため、すべての河川について通常予測し、かつ、回避しうるあらゆる水害を未然に防止するに足りる治水施設を完備するには、相応の期間を必要とし、未改修河川又は改修の不十分な河川の安全性としては、右諸制約のもとで一般に施行されてきた治水事業による河川の改修、整備の過程に対応するいわば過渡的な安全性をもつて足りるものとせざるを得ないのであつて、当初から通常予測される災害に対応する安全性を備えたものとして設置され公用開始される道路その他の営造物の管理の場合とは、その管理の瑕疵の有無についての判断基準もおのずから異なつたものとならざるを得ないのである。

そして、我が国における治水事業の進展等により右のような河川管理の特質に由来する財政的、技術的及び社会的諸制約が解消した段階においてはともかくとして、これらの諸制約によつていまだ通常予測される災害に対応する安全性を備えるに至つていない現段階においては、当該河川の管理についての瑕疵の有無は、過去に発生した水害の規模、発生の頻度、発生原因、被害の性質、降雨状況、流域の地形その他の自然的条件、土地の利用状況その他の社会的条件、改修を必要とする緊急性の有無及びその程度等諸般の事情を総合的に考慮し、前記諸制約のもとでの同種・同規模の河川の管理の一般水準及び社会的通念に照らして是認しうる安全性を備えていると認められるかどうかを基準として判断すべきである。

(二)  河川管理の瑕疵の有無は、右のとおり、当該河川が過去の水害発生状況その他前記諸般の事情を総合的に考慮し、河川管理の一般水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性を備えていると認められるかどうかを基準として判断すべきであるところ、既に改修計画が定められ、これに基づいて現に改修中である河川については、右計画が全体として右見地からみて格別不合理なものと認められないときは、その後の事情の変動により当該河川の未改修部分につき水害発生の危険性が特に顕著となり、当初の計画の時期を繰り上げ、又は工事の順序を変更するなどして早期の改修工事を施行しなければならないと認めるべき特段の事由が生じない限り、右部分について改修がいまだ行われていないとの一事をもつて河川管理に瑕疵があるとすることはできないと解すべきである(1、2(一)、(二)について最高裁判所昭和五九年一月二六日第一小法廷判決・民集三八巻二号五三頁参照)。

(三) なお、河川法は一条及び二条において、洪水、高潮等による災害発生の防止が河川管理の主要目的のひとつであると定め、その目的のために一六条において河川管理者に対し、当該管理河川について計画高水流量その他当該河川の河川工事の実施についての基本となる事項(工事実施基本計画)の策定義務を課し、降雨量、地形、地質その他の事情によりしばしば洪水による災害が発生している区域については、災害発生を防止し、又は災害を軽減するために必要な措置を講ずるように特に配慮すべきことを定めている。そして、これを受けて河川法施行令一〇条は右工事実施基本計画は洪水、高潮等による災害発生の防止又は軽減に関する事項については、過去の主要な洪水、高潮等及びこれに災害発生の状況並びに災害発生を防止すべき地域の気象、地形、地質、開発状況等を総合的に考慮して作成されなければならず、河川工事の実施の基本となるべき計画については基本高水(洪水防御に関する計画の基本となる洪水)並びにその河道及び洪水調節ダムへの配分に関する事項、主要な地点における計画高水流量に関する事項、主要な地点における流水の正常な機能を維持するため必要な流量に関する事項を、河川工事の実施に関する事項としては、主要な地点における計画高水位、計画横断形その他河道計画に関する重要な事項、主要な河川工事の目的、種類及び施行の場所並びに当該河川工事の施行により設置される主要な河川管理施設の機能の概要をそれぞれ定めなければならないと規定している。したがつて、現行河川法は河川管理者に対し、洪水による災害の発生を防止又は軽減するための措置として計画高水流量を基本とした工事実施基本計画を策定し、これに基づいて順次段階的に河川の安全性確保のための河川工事を実施することを求めているということができる。

3  河川管理の瑕疵について

前記認定の各事実に基づいて右判断基準にしたがつて本件水害時における平作川の河川管理の瑕疵の有無について判断する。

(一) 被告国及び神奈川県の認識について

前記認定したところによれば、被告国及び神奈川県としては平作川流域のうち原告らの大多数が居住している舟倉地区に接する部分は特に多量の降雨等があつた場合に平作川が溢水するおそれがあつたことについて、これを認識していたか、認識し得たものと認められるのみならず、本件水害時の降雨量等は、将来計画のみならず改修実施計画においても前提として想定されている範囲内の降雨量及び高水流量であり、右計画において想定された雨量も、現実に経験した雨量等から具体的に算定されたものであつて、単なる計画上の想定値ではないのであるから、被告国及び神奈川県としては本件水害時程度の降雨量については十分予見し、又は予見可能であつたものというべきである。したがつて本件溢水についてもこれを予見又は予見可能であつたといわざるを得ない。

(二) 平作川の改修計画の合理性について

(1) しかしながら、前記のとおり本来河川改修には前記の各制約があり改修計画の完成には種々の困難が伴うため到底短期間にはこれをなし得ないことは明らかであり、平作川においても、前記将来計画達成に至るまでの暫定計画ないし当面の計画を実施している段階にあつたのであるから、本件水害当時の平作川の改修状況のもとでは、右のとおり被告国及び神奈川県において、本件水害時の降雨量及びこれによって引起される水害について、予見又は予見可能であつたにもかかわらず、水害当時のもの以上の改修工事を行わず、これを水害後に至つて行つたとしてもそのことから直ちに同被告らの平作川の管理に瑕疵があるとすることができないことは前記の理由と同一であつて、本件においてこれと異なる理由を見出すことはできない。

(2) しかも、平作川については、前記のとおり昭和三九年、同四六年にそれぞれ改修計画を立ててその実施基本計画に基づいて改修工事の実施を行つているのであつて、その計画が全体として格別不合理と認められるところはなく、また平作川の堤防も本件水害当時、右計画に基づく改修がいまだ終わつていない堤防であつたが、その改修が実施予定に比較して、特に相当な理由がないにもかかわらず、不当に遅延したり、改修未了のまま放置されていた等の事情をうかがわせるに足る証拠はない。

(3) ところで、前記のとおり、被告国及び神奈川県において昭和三九年度及び昭和四六年に策定した平作川改修計画が河川法に定める前記工事実施基本計画に当ると認められるところ、通常中小河川については前記のとおり年超過確率五年ないし一〇年度程度の降雨量(時間雨量五〇ミリメートル)を暫定計画の実施目標としており、平作川についても右改修計画において同程度の年超過確率を当面の実施目標とし、時間雨量を七四・六ミリメートルとして暫定計画が策定されており、しかもその改修達成率も他の同規模の河川とほぼ同程度であつて、これらに比較して決して劣るものではないことも明らかであり、これが全体として格別不合理なものであると認めるに足る証拠はなく、一応合理的なものと推認される。

(三) 個別的特殊事情の存在について

そこで次に、平作川の流下能力、A・B間の堤防、C、D、E地点のパラペットの開口部の存在、夫婦橋付近の舟揚場、小屋等の存在等について、これらが早期に改修工事がなされなければならないだけの特段の事由があつたか否かを検討する。

(1) 平作川の流下能力について

ア 本件水害当時の平作川の流下能力については、これを適確に測定したと認められる資料がないため、これを一義的に確定することはできないが(なお、乙第三三号証には本件水害当時の夫婦橋下及びその他の地点における流下能力を計算した結果が示されているが、その作成年月日等から推測される作成経緯及びその計算内容が簡単で、しかも参照するに足る資料の添付もないことなどに照らして右数値を直ちに採用することはできない。)、前記第三・三2(三)のとおり神奈川県において昭和四六年度に平作川河道計画案を立案した際、平作川の流下能力を把握しており、これは右河道計画案を立案計画するために測定等してこれを把握したものと認められ、右数値は右河道計画案の成立経過等に照らして採用し得るものと認められるから、これが昭和四六年当時の平作川の流下能力と認められるところ、平作川については同年から本件水害時までの間に、その状況が大きく変化したことをうかがわせるに足る証拠がないから、本件水害当時の流下能力は昭和四六年当時の数値とほぼ見合うとものと推認できる。

そして、右平作川の流下能力によれば全体として直ちに暫定的計画流量ないし当面の計画流量に対して早急に具体的措置を講じなければない程不十分な流下能力であつたとみることはできない。もつとも、五郎橋部分の流下能力よりその下流部分の一部に若干流下能力の低いところがあつたことは前記のとおりであるが、そこでの一定区間の流下能力がその地点の流下能力以下に限定されるとはいいきれないし、前掲証人高木徹、同中村浩幸の各証言によれば、それが直ちに平作川の流下能力の著しい阻害になつていたとはみられず、現に昭和三六年以降本件水害までの間は溢水は生じていなかつたのであつて、右上流部よりも流下能力の低い下流部分が存在したことが、明白な又は主要な本件溢水の原因であつて、右の点がなければ本件溢水が避けられたと考えられる程に明らかな本来的危険原因とされていたともみられないから、直ちに右の点に瑕疵があつたとすることはできず、他に右の認定を動かす資料はない。なお、右昭和四六年当時の夫婦橋付近の流下能力もほぼ右の数値に見合つていたものと推認できる(なお、前記のとおり原告ら主張のように夫婦橋付近には右当時から舟揚場、小屋等が存在していたものと認められるところ、このことから右数値は若干低くなることが一応推認されるものの、このことから直ちに右流下能力が著しく減少していたとすることはできず、また右の著しい減少についてこれを明らかにする証拠はない。)ところ、その後、夫婦橋付近が、本件水害時までにその状況が大きく変化したことをうかがわせるに足る証拠がないことは右のとおりであるから、本件水害当時も右同様の流下能力であつたと推認できる(なお、右乙第三三号証には、本件水害当時の夫婦橋下の流下能力を毎秒一八〇・三立方メートルと計算した結果が示されているが、これは前記のとおり、その作成年月日等から推測される作成経緯等に照らして直ちに採用できない。)

イ また、前記のとおり、昭和四七年一月一〇日開催の建設行政県市連絡会議において、横須賀市が平作川改修の促進について「本市公共下水道事業計画は、昭和四七年度完了を目途に鋭意努力をかさね、実施中であり、計画どおりに完了する運びであり、また平作川沿岸の久里浜工業団地付近の雨水排除のための整備も同時に実施しているので平作川の河川整備(護岸、浚渫等)を積極的に促進を要望する」と提唱したのに対し、神奈川県側は「今年度は二二〇〇万円をもつて河川の浚渫を行うことになつている。四七年度も要望している。平作川の計画流量は黄金橋で毎秒八〇立方メートル、五郎橋毎秒一九〇立方メートル、河口において毎秒三〇〇立方メートルであり、五郎橋より下流部は、一応既成と考えているが、計画的に整備したい。」と回答していたのであるが、前掲証人小口晶弘の証言からも右連絡会議が両者の共同的な河川、下水道行政施策の策定を目的としたものではなく、両者の間でそれぞれの要望ないし情報の提供、交換が主であつたとみられるのみでなく、右横須賀市からの要望も、下水道事業計画の実施による平作川流量の増加に伴う整備を要望したものであつて、溢水等の水害危険を具体的に指摘し、これを回避するため緊急に対応措置を求めたものとはみられないから、これによつて緊急的な改修計画の変更、繰り上げ施行をすべき特段の状況が明らかになつたと即断することはできない。

更に横須賀市議会における同旨の、又はこれに類する平作川改修事業の実施を要望する討議もそのまま直接被告国及び神奈川県に対する関係において行われたものとなるのではないから、これによつて同被告らが直接の関係において緊急に河川行政上の措置を講ずることを必要とする状況に置かれていたといい切ることもできない。

(2) A・B間の堤防について

ア 平作川の下流域はもともと入江の状態になつていたところ、これが開拓されて田畑となり、それが更に住宅、工場等となり、次第に人家が密集してくるようになつたため、おのずから低地で雨水等の排水が不良な地帯となつており、そのため、横須賀市内でも浸水被害の危険性が高い地帯として指摘を受けてきたのであるが、過去にも平作川が溢水して被害を及ぼしていたものの、その頻度はそれ程高いものではなく、人口の増加率及び人口密度が急激に高くなつたわけでもないこともあつて、河川改修費が最優先的に投入される対象にはなつていなかつたものとみられるのであつて、そのこと自体が直ちに不合理なものとはいえない。

イ しかも、平作川の溢水の頻度について検討しても、昭和三三年、同三六年の溢水以後は、本件水害まで溢水はなく、その間の台風等については一応これに耐え、多量の降雨も流下させてきた(本件水害時の降雨量は、未曾有の予測を超えた程度であるといえないが、観測史上際立つたものであることは前記認定のとおりである。)のであり、前記判示の河川管理の特質及びそれに内在する諸制約並びに本件における各事情を総合判断するならば、本件平作川のA・B地点を含む堤防については本件水害当時同種・同規模の河川管理の一般水準(当面の目標を満たす水準)及び社会通念に照らして是認し得る安全性を一応具備していたものと認められ、特にA・B間につき右計画を早急に変更すべき特段の事由があつたものと認めるに足りる資料はない(ちなみに、前掲甲第四〇、四一号証の各一ないし一一によれば、A・B間の対岸である右岸付近も左岸と同一の溢水状況をみせており、右溢水が右A・B間のみの特有の安全性の欠如によつて生じたものでなかつたことがうかがわれる。)。また左岸のうちでも特にA・B間が低く、その関係で特に危険な状態にあつたと認めるに足る証拠はない。

ウ もつとも、前記のとおり、横須賀市地域防災計画(添付の神奈川県横須賀土木事務所水防計画を含む。)において、平作川の水害予防計画において問題となる状況、水害発生の原因となる状況、社会的条件、水害危険地域の指摘等がなされており、特に昭和四六年度修正の防災計画(前掲甲第五八号証)において、「本市は産業の発展に伴う市内の需要と京浜地区のベツトタウンとしての要請から、宅地確保のため、山地、丘陵の宅地造成が進み、これからくる崖崩れ、浸水等の危険を随所に内包している。」(「社会的条件」)、「本市の地理的条件並びに本市の被つた災害のうち最も頻度の高い台風及び集中豪雨による洪水、浸水及び崖崩れによる被害の対策に重点をおく」(「災害の想定」)ことにし、風水害について過去の大型台風を基礎として災害を想定し降雨量四〇〇ミリメートルとして前記の浸水危険箇所を指摘し、被害範囲棟数、世帯数を挙げている(昭和四七年度でこの被害数を一部訂正)。

右のように、防災計画上問題となる状況、社会的条件や浸水危険の要因、危険箇所等について指摘がなされていたのであるが、それらはいずれもそれぞれの時期における将来の計画として策定されている(その点で、平作川の河川改修計画とも関連性がみられる。)が、当面のやや具体的指摘とみられるものもあり、特に浸水危険箇所の指摘は明示的具体性を持つものであるが、昭和四六年度修正では日雨量を四〇〇ミリバールと想定している点、危険の度合、緊急性の程度を具体的に評価記載せず、網羅的に記載している点などがあつて、必ずしも危険の度合、緊急性の程度は明らかでなく、これらの資料の指摘からその浸水危険の緊急性の度合、順位を読み取ることは困難であり、原告ら主張のA・B間の溢水の危険性が特に顕著であつたとすることはできない。

(3) C・D・E点におけるパラペツトの開口部について

C・D・E点におけるパラペツトの開口部の設定置理由については前記認定のとおりであるが、この構造を含む平作川の堤防全般については前記のとおり社会通念上その安全性が一応是認できるものであつて、右パラペツトの構造が特に安全性及び効用に欠ける特段の事由は見当らず、原告指摘のように右E点開口部に木橋の旧人道橋が設けられていて左岸側が右岸側よりもやや低くなつていたとしても、それが直ちに当該部分の平作川の流下能力を著しく阻害する危険な要因となつていたとはみられないから、この点の原告らの主張も採用できない。

もつとも、この点からの溢水の危険のあつた趣旨を肯定する横須賀市の陳述がみられるが、その理由は明らかでなく、一般的に一定の条件において、パラペツトの開口部の存在がこれが無いときに比較して溢水の可能性が高くなることは考えられるが、本件水害時までの間に特別に危険の高い構造と指摘されてきた形跡はうかがわれないから、右の陳述のみから、直ちに溢水の危険が高いことが客観的に明らかであつたとすることはできない。

(4) 夫婦橋付近の舟揚場、小屋等の存在について

夫婦橋付近に漁業関係者において必要とする舟揚場があり、常に舟が係留され、また小屋等もあり、しかもその河底断面が複合形態になつていたことは前記のとおりであつて、他の部分と異なる複雑な構造となつており、これが流下能力に何らかの影響があることは否定しないとしても、昭和三六年以降は本件水害時まで溢水はなく、この間の降雨等については一応流下可能であつたのであり、右の箇所における構造、状態が平作川の流下に特に著しい支障となつて溢水の危険を高くしていたと認めることはできず、結局夫婦橋付近から前記改修計画の変更・修正を早急に行い、改修工事を緊急にもしくは他に優先して行わなければならない特段の事由があつたと判断することはできない。

(四) なお、原告主張のように、横須賀市が平作川流域の開発規制を適切に行わなかつたことにより平作川への排水を増大させたことが直ちに法律的に被告国及び神奈川県において管理する営造物としての平作川の管理瑕疵の一部に当たるとはみられない。

三  公共下水道(吉井川及び甲・乙・丙水路)の設置・管理瑕疵について

1  公共下水道管理の目的、性格

(一) 河川法が、その目的を「河川について洪水、高潮等による災害の発生が防止され、河川が適正に利用され、及び流水の正常な機能が維持されるようにこれを総合的に管理されることにより、国土の保全と開発に寄与し、公共の安全を保持し、かつ公共の福祉を増進する」(第一条)ことにありとするのに対し、現行の下水道法は流域別下水道整備総合計画の策定に関する事項並びに公共下水道、流域下水道及び都市下水道の設置その他の管理の基準を定めて、下水道の整備を図り、もつて都市の健全な発達及び公衆衛生の向上に寄与し、あわせて公共用水域の水質保全に資する(第一条)ことにあるとしており、この目的の相違からも明らかなように、下水道管理の目的は健全な都市機能としての雨水・汚水の排除、そのための施設の地域全般にわたる機能の維持、整備、確保に主眼が置かれており、限られた箇所における洪水、溢水等の災害防止のみを目的とするものではないし、そもそも河川の場合に比較し、前記いわゆる自然公物的性格はほとんどないか極めてわずかにとどまるものである。したがつて、河川である平作川の場合について述べた前記法理が直ちにそのまま妥当すると考えることはできない。すなわち、前記認定のとおり、被告横須賀市が関係機関と協議のうえ時間雨量六〇ミリメートルを基準として、下水道事業を計画し、順次これを実施する態勢をとつて施工を継続し、逐次その事業計画に拡大、変更を加えてこれを実施しつつある段階であり、規模は異なるが、財政上の制約等河川管理の場合に類似する一定の制約のもとに、段階的に下水道整備計画事業を行つている以上それが未だ完了していないことに溢水の原因があつたとしても、それによつて直ちに公の営造物である下水道の設置・管理に瑕疵があつたとはいえないとする法理を適用してその責任を否定することは、その本質、目的の差異からみて相当ではない。前記下水道法の目的及び都市計画法等の趣旨との関連から考えると、むしろ下水道事業計画による計画事業の実施中の段階にあつたとしても、健全な都市機能として最低限度必要な雨水・汚水の排水機能を有しないで、都市における市民生活の受忍限度を超える浸水被害やこれに類する影響を生ずるおそれの程度に右機能の欠如、欠陥があるときは、公共下水道の設置・管理に瑕疵があるものと考えるのが相当である。(建設省昭和四七年七月七日作成の「下水道事業の動向」(成立に争いのない甲第五四号証)においてもその趣旨がうかがわれる。)。

(二) 前記認定の被告横須賀市の下水道事業計画からも、横須賀市がほとんど市内全般にわたり、下水の排除のために必要限度の機能完備を速やかに実現するための下水道事業を行おうとしていたことがうかがわれるが、右のような下水道事業を実施しつつある段階における受忍限度を考えると、公共下水道からの浸水被害を生ずることがあつても、軽度の床下浸水程度であつて、都市の市民生活に大きな影響を与えない程度の浸水被害であるときは受忍限度を超えるものではないと考えられる。しかし、不可抗力又は予見できない雨量その他特別の原因のある場合を除き都市の市民生活に重大な又は相当の影響を与える程度の床上、床下浸水被害を生ずるような前記機能の欠如、欠陥を有するものであれば、受忍限度を超え、公共下水道の設置・管理に瑕疵があると認めるのが相当である。

2  公共下水道設置・管理の瑕疵について

そこで、被告横須賀市の公共下水道につき、右に述べた設置・管理の瑕疵があるかどうかについて検討する。

(一) 下水道計画について

まず、被告横須賀市の下水道計画自体に右瑕疵を見出し得るかどうかについてみると、本件水害までに前記認定のように順次段階的に拡大、変更を加えられ、実施されてきた下水道事業計画自体は、その目的、内容、設定経過に照らして特に合理的妥当性を欠くとみられるものはないということができ、前記認定の本件水害後のポンプ場設置時の想定時間雨量、昭和五六年の水害発生もその日雨量等からみて、本件水害当時までの下水道事業計画の合理的妥当性自体を直ちに動かすものではないと認めるのが相当である。

(二) 受忍限度と設置・管理瑕疵

<証拠>及び弁論の全趣旨によれば、昭和三六年以降においても本件水害当時までに、度々平作川の溢水を伴わない下水道からの溢水による床下浸水があり、昭和四五年及び昭和四七年には吉井川の溢水による床上浸水(水害統計では、前者につき四九センチメートル以下一一戸、後者につき同六戸)が生じたことが認められ、その程度は床上浸水を含む相当大きな影響を都市の市民生活に与えてきたことは推認に難くないから、その浸水被害は都市の市民生活としての受忍限度を超えるものとみられ、これらの結果に、そのような浸水被害を度々生じさせた公共下水道についての前記第四認定の各下水道の状況、排水能力、整備の経過等を総合して考えると、全線暗渠である甲水路を除く下水道特に吉井川についてその設置・管理に瑕疵があつたと認める(なお、前記甲水路については前記開口部からの溢水可能性がこれに当たるかどうか必ずしも明らかでなく、前記認定の程度では直ちにこれに当たるとはみられない。)のが相当であつて、推計計算等によつて得られる排水能力の数値などによつて直ちに右の事実を動かし得ないところ、他に明らかな欠陥事由は見当たらないから、結局従前から指摘されていたように、右地域の都市構造、土地利用、人口、住宅数、工場等の変化、増大等に伴う必要限度の下水道の排水能力、ポンプ等による滞水の排水能力の不足が原因であると推定されるのであつて、右変化、増大がそれ自体自然の遊水機能、保水機能、地下浸透を急速に減少、変化させるものであつて、これに対応することに多くの困難が伴うものであつたとしても、都市機能としての公共下水道の持つ機能的価値からみて、直ちに右瑕疵を否定することはできない。

(三) 回避可能性について

しかし、右機能の不足による欠陥に基づいて予測される結果について回避不可能な事由があれば、なお瑕疵の責任を問うことはできないというべきところ、右の欠陥は不可抗力その他特殊な要因を除けば、財政的負担その他の負担を含め一般には回避不可能ではなかつたと考えられる。もつとも、これら下水道の排水能力も放流先である平作川の水位、流下能力により影響を受けるので、その流下能力が限界にある場合には公共下水道のみの排水能力を一方的に高めても、その機能を発揮することはできないことになる関係にあつたと考えられる点もあり、被告横須賀市のみによつて回避可能であつたとはいいきれない面がないではないが、それらの関係は具体的には必ずしも明らかではなく、右平作川の流下能力の不足ないし限界のため、具体的に前記欠陥の改善等による回避措置を取ることができなかつたと断定することはできない(前記神奈川県との建設行政連絡会議における平作川の改修促進についての神奈川県に対する要望もこれを肯定させるものではない。)から、右の事由によつて前記結論を動かすことはできない。

(四) 可能限度を超える要因の存在について

しかしながら、本来下水排水施設は、特別の施設を除きほとんどは比較的小規模な施設によつて都市全般にわたり日常の市民生活から生ずる汚水及び自然降雨による雨水を都市の市民生活に影響を与えない程度に排水処理をするための営造物なのであるから、受忍限度内の軽度なものを除き、原則的には都市の市民生活に影響を与える浸水被害に対する回避義務を負う反面極大の降雨にも耐えられ、完全に排水可能な機能を常に期待することは困難であり、ある程度の範囲に止どまるのはやむを得ないところであり、国が管理する河川に比べその基準降雨量もやや低く押さえられることも避けられないものと思われる。したがつて、下水道事業計画において設定された降雨量(時間雨量)が不合理でなく妥当性のあるものであれば、原則的にはその範囲での排水機能を期待するのが通常であると考えられ、右基準降雨量を超えるような強い降雨に対しては、通常期待できる機能を超えるものとして、予め浸水被害等の結果回避義務を負うことは困難であると考えるのが相当である。そして、横須賀市の場合、前記認定のとおり降雨量(時間雨量)六〇ミリメートルとして下水道事業計画を立ててこれを実施してきたのであるが、これは、前記認定のとおり、神奈川県内においては横浜市と並んで最も高い基準であり、多雨地域である四国、九州地方を除けば、全国的にも高い基準にあると考えられる(ちなみに、平作川の暫定計画における時間雨量は前記のとおり七四・二ミリメートル、当面の目標計画におけるそれは五〇ミリメートルである。)。したがつて、右計画基準降雨量をも相当に超えた本件水害時の最高時間雨量六八ミリメートルないしはこれを超える降雨量、降雨時間及び日雨量を勘案すると、本件水害時の公共下水道からの溢水は通常期待されている機能を超えるものとして、その結果回避義務上の責任を問うことはできないと認めるのが相当である。

(五) 有意的因果関係の不存在について

しかも、右下水道からの現実の溢水量と本件浸水被害との関係の点からみても、膨大な溢水量による本件床上浸水被害全体が、本件公共下水道の溢水のみによつて生じたとは見られないことは、平作川の規模、その流下水量と下水道である吉井川及び乙水路(いずれも開渠)・甲水路(全部暗渠)・丙水路(ほとんどが暗渠)の規模、流下水量との差異等を比較的勘案することによつて容易に推認されるから、本件公共下水道からの溢水と前記認定の本件床上浸水被害との間には直ちに相当因果関係があるとは認め難い。もつとも、原告ら家屋の床上に浸水した溢水の一部は現実に本件公共下水道からの溢水によるものであることは否定しえないが(これと異なる推計結果を示す丙第三〇号証は直ちに採用出来ない。)、総溢水量に比較して限られた一部にしか当たらないこと(しかも、平作川の水位の急速かつ大幅な上昇からも各水路の、特に吉井川の流下能力の低下をきたす関係にもあつたこと)は、その具体的溢水量を測定するに足る資料はないにしても、推認に難くなく、直ちに社会的、有意的因果関係を肯定することはできない。したがつて、平作川の管理瑕疵が否定されるにかかわらず、なお本件浸水被害の全部についてその責任が本件公共下水道の瑕疵に帰するものと認めることはできない。また、右下水道からの浸水によつて原告らが個々具体的にどの範囲で被害を受けたかを区別し、これを明らかにすることができる資料もないから、結局、右想定される溢水の一部についても直ちに被告横須賀市に責任を負わせることはできないものといわざるを得ない。

四  関連共同責任について

以上のとおり、結局原告らの浸水被害につき、被告国及び同横須賀市はいずれも個別的には公の営造物の設置・管理について国家賠償法上の責任を負うものとは認められないのであるが、それにもかかわらず、原告ら主張のように、河川及び公共下水道の管理についてそれぞれ関連共同的に責任を負う関係から、総体として共同的に原告らの浸水被害による損害の発生について責任を負うべきものとする理由に乏しく、この点の原告らの主張も採用できない。

第七  結  論

以上のとおりであつて、原告らが本件において河川及び公共下水道の設置・管理に瑕疵があるとする主張はいずれも理由がないから、原告らの本訴請求はその余の点について判断するまでもなく、いずれも失当である。

よつて、原告らの本訴請求はいずれもこれを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(渡邊卓哉 花田政道 秋武憲一)

〔別紙〕原告目録(一)<省略>

〔別紙〕原告目録(二)<省略>

〔別紙〕承継人一覧表<省略>

(別 紙) 被害一覧表(一)

原告

番号

氏名

床上浸水

(センチメートル)

(一)1

岩村文雄

三〇

(一)2

鈴木邦明

七〇

(一)3

石渡林蔵

四〇

(一)4

北村和吉

九〇

(一)5

北村藤兵衛

二〇

(一)6

鈴木勲

一三〇

(一)7

北村直由

一七〇

(一)8

石渡賛

九〇

(一)9

明石芳蔵

一〇〇

(一)10

榎本進

一四〇

(一)11

砂山タツヨ

一二〇

(一)12

石渡三代吉

七五

(一)13

鈴木政蔵

八〇

(一)14

榎本倭子

一三〇

(一)15

石渡友吉

九〇

(一)16

鈴木勉

一〇〇

(一)17

藤田武

一〇〇

(一)18

蜂谷紘一

一〇八

(一)19

高橋武雄

一二〇

(一)20

小川泰永

一七〇

(一)21

斎藤勝秀

八五

(一)22

山田孝一郎

七〇

(一)23

土井徹

一〇〇

(一)24

高橋英明

一二〇

(一)25

中村とよ子

一三五

(一)26

鈴木英之

一〇〇

(一)27

栗本清司

一五〇

(一)28

平野明宏

一七〇

(一)29

小川栄次

一一五

(一)30

及川喜蔵

一〇〇

(一)31

熊谷匡司

一〇〇

(一)32

笹木太市

六〇

(一)33

小谷政幸

五五

(一)34

佐野シズ

一〇〇

(一)35

井口運

七〇

(一)36

山田ハナ

一二〇

(一)37

鈴木參夫

七〇

(一)38

鈴木爲男

七〇

(一)39

藤田次郎

四〇

(一)40

鈴木六蔵

一〇〇

(一)41

石橋信喜

九〇

(一)42

大和田義雄

一五〇

(一)43

仁科力

八六

(一)44

高山数則

八〇

(一)45

阿村寅正

一二〇

(一)46

丸尾勇

四〇

(一)47

菱沼俊子

五〇

(一)48

村上恭子

七〇

(一)49

長島秀夫

五〇

(一)50

高木昭雄

一二〇

(一)51

古谷正利

一〇五

(一)52

加藤幸子

一一〇

(一)53

牧野俊和

一一五

(一)54

田島孝是

一七六

(一)55

相澤光男

一〇〇

(一)56

小川亀吉

一〇〇

(一)57

阿相清

六〇

(一)58

江藤敏雄

七〇

(一)59

江藤良夫

一一〇

(一)60

長塚義男

一二五

(一)61

江藤春夫

一七六

(一)62

佐々木勝利

三四

(一)63

臼井時夫

三〇

(一)64

宇都陸雄

九〇

(一)65

木村精助

一三三

(一)66

斎藤達吉

七〇

(一)67

小松勲

三〇

(一)68

原良一

三五

(一)69

目黒清吾

三三

(一)70

木川渉

九〇

(一)71

辻直也

四〇

(一)72

鈴木信正

五四

(一)73

岩崎秀宏

五五

(一)74

中内賀久

七〇

(別 紙) 被害一覧表(二)

原告

番号

氏名

床上浸水

(センチメートル)

(二)1

大沢公男

五〇

(二)2

熊沢政寛

一〇〇

(二)3

元九州男

三五

(二)4

片山賢治

九四

(二)5

若林保

六二

(二)6

久保田徳市

五〇

(二)7

樋口義家

九〇

(二)8

塚本章

一三〇

(二)9

宮沢次助

六〇

(二)10

笠井眞

八〇

(二)11

梅沢律子

一〇〇

(二)12

小菅一男

一〇〇

(二)13

萩原近造

八〇

(二)14

長島正己

一七〇

(二)15

本多竹夫

七五

(二)16

伊藤永太郎

一二七

(二)17

矢吹喜代志

一一五

(二)18

亀崎幸正

二三

(二)19

海村亨

六〇

(二)20

金井茂人

七〇

(二)21

内藤宗幸

七五

(二)22

川村利光

一二〇

(二)23

長谷川勝美

九〇

(二)24

山下勝春

七〇

(二)25

山本卯一

七〇

(二)26

関本ヒデ

四〇

(二)27

三ツ橋武男

五〇

(二)28

高橋喜代子

四〇

(二)29

鈴木善吉

一二〇

(二)30

石川弘

一一〇

(二)31

藤平八郎

一〇〇

(二)32

石塚勲

八〇

(二)33

山田睦

一〇〇

(別 紙)本件水害当時の住所一覧表<省略>

別表(一)

(A地区に居住していた原告ら)

原告番号

原告名

年度

昭和33年

34年

35年

36年

37年

38年

39年

40年

41年

42年

43年

44年

45年

46年

47年

48年

(一)1

岩村文雄

床下浸水

(一)2

(鈴木エミ子の

被承継人)

鈴木邦明

床上30

cm

床下浸水

(一)3

石渡林蔵

床上70

cm

床下浸水

床上30

cm

床下浸水

(一)5

北村藤兵衛

床上80

cm

床下浸水

(一)6

鈴木勲

床上30

cm

床下浸水

床下浸水

(一)7

北村直由

床上70

cm

床下浸水

床下浸水

(一)8

石渡賛

床上30

cm

30

cm

(一)9

明石芳蔵

床上50

cm

床下浸水

床下浸水

(一)10

(榎本進の

被承継人)

榎本嶋吉

床上100

cm

床下浸水

(一)11

砂山タツヨ

床上90

cm

床下浸水

床下浸水

床下浸水

床下浸水

(一)12

石渡三代吉

床上100

cm

床上

5

cm

床下浸水

(一)13

鈴木政蔵

床上100

cm

床上

5

cm

床下浸水

(一)14

(榎本倭子の

被承継人)

榎本鉄五郎

床上10

cm

床上10

cm

(一)15

石渡友吉

床上130

cm

(一)16

鈴木勉

床上100

cm

床上

5

cm

(一)19

高橋武雄

床上80

cm

床下浸水

(一)20

小川泰永

床上70

cm

床下浸水

床下浸水

床下浸水

(一)23

土井徹

床下浸水

(一)24

(高橋英明の

被承継人)

高橋三郎

床上85

cm

床下浸水

(一)25

中村とよ子

床上100

cm

床下浸水

(一)26

鈴木英之

床上90

cm

床下浸水

(一)27

栗本清司

床下浸水

(一)28

平野明宏

床上100

cm

床上

2

cm

5

cm

2

cm

3

cm

6

cm

10

cm

3

cm

2

cm

1

cm

10

cm

6

cm

5

cm

1

cm

(一)32

笹木太市

床上10

cm

(一)33

小谷政幸

床上60

cm

床下浸水

(一)36

山田ハナ

床上80

cm

床下浸水

(B地区に居住していた原告ら)

原告番号

原告名

年度

昭和

33

34年

35年

36年

37年

38年

39年

40年

41年

42年

43年

44年

45年

46年

47年

48年

(一)42

大和田義雄

40

cm

(二)11

梅沢律子

(C地区に居住していた原告ら)

原告番号

原告名

年度

昭和

33

34年

35年

36年

37年

38年

39年

40年

41年

42年

43年

44年

45年

46年

47年

48年

(一)42

大和田義雄

床上

40

cm

(二)11

梅沢律子

(D地区に居住していた原告ら)

原告番号

原告名

年度

昭和

33

34年

35年

36年

37年

38年

39年

40年

41年

42年

43年

44年

45年

46年

47年

48年

(一)51

古谷正利

(一)52

加藤幸子

(一)54

田島孝是

床上

5

cm

10

cm

(一)55

(相澤光男の被承継人)

相澤タツ

(一)56

小川亀吉

床上

50

cm

(一)58

江藤敏雄

(一)59

江藤良夫

床上

5

cm

(一)60

長塚義男

床上

20

cm

(一)61

江藤春夫

床上

10

cm

10

cm

10

cm

(一)64

宇都陸雄

(一)65

木村精助

(一)66

斎藤達吉

(一)70

木川渉

(二)17

矢吹喜代志

(F地区に居住していた原告ら)

原告番号

原告名

年度

昭和

33

34年

35年

36年

37年

38年

39年

40年

41年

42年

43年

44年

45年

46年

47年

48年

(二)26

関本ヒデ

床上

2

cm

(二)27

三ツ橋武男

床上

10

cm

(二)29

鈴木善吉

床上

20

cm

床上

20

cm

床上

20

cm

(二)30

(石川弘の被承継人)

石川ナカ

床上

50

cm

床上

10

cm

床上

10

cm

床上

10

cm

(二)31

藤平八郎

床上

5

cm

床上

10

cm

別 表(二)

昭和40年度から同49年度までの10か年間に神奈川県知事が管理している河川に投入した総費用、

及び一般資産等被害額 (要改修80河川)

河川の類型

河川数

(河川)

投入額

(百万円)

一河川当り

平均投入額

(百万円)

一般資産

等被害額

(百万円)

一河川当り

平均被害額

(百万円)

備考

大河川

(流域面積200平方キロメートル

以上の河川)

4

31,227

7,807

8,356

2,089

中小河川

(流域面積

二〇〇平方

キロメートル

未満の河川)

県内東部河川

横浜市・

川崎市内の

河川

26

33,802

1,300

15,348

590

その他河川

16

12,366

773

2,904

182

平作川を含む

県内西部河川

34

17,668

520

7,819

230

平作川

1,263

1,263

168

168

(注) 1.県内東部河川:相模川を境に神奈川県の東側にある河川

2.県内西部河川:相模川を境に神奈川県の西側にある河川

3.投 資 額:昭和49年度価格換算

4.一般資産等被害額:建設省河川局「水害統計」を昭和49年価格換算して集計したもの(公共土木施設等被害額を含む。)

別 表(三)

同規模(流域面積25~35平方キロメートル)の河川

河川名

主な沿川

市区町村

流域

面積

(平方キロ

メートル)

管理

延長

(メートル)

一般資産

等被害額

(百万円)

流域市

区町村の

人口密度

(人/平方

キロメートル)

49年7月

人口統計

調査

総費用

(百万円)

備考

大岡川

横浜市

(中区、

南区、

磯子区、

港南区)

34.96

8,480

1,932

中区7,222

南区15,680

磯子区8,444

港南区6,839

8,622

玉川

厚木市

33.90

8,000

77

厚木市1,128

165

戦後まもなく

現況河道に

整備された。

中村川

中井町

33.10

9,000

140

中井町347

542

中津川

松田町

30.55

9,100

0

松田町323

54

葛川

大磯町

二宮町

29.84

5,660

49

大磯町1,593

二宮町2,682

271

恩田川

横浜市

(緑区)

29.27

7,600

944

緑区2,842

1,711

早淵川

横浜市

(港北区、

緑区)

29.11

9,770

1,254

港北区5,971

緑区2,842

3,203

山王川

小田原市

29.00

4,050

122

小田原市1,507

399

戦前において

現況河道に

整備された。

串川

津久井町

26.75

12,100

443

津久井町130

821

平瀬川

川崎市

(多摩区、

高津区)

26.01

8,000

57

多摩区4,284

高津区7,123

1,353

室川

秦野市

25.35

5,000

70

秦野市934

193

平作川

横須賀市

25.45

7,070

168

横須賀市3,847

1,263

(注) 1.一般資産等被害額:建設省河川局「水害統計」を昭和49年価格換算して集計したもの(公共土木施設等被害額を含む。)

2.総  費  用:昭和40年度から同49年度までの10か年間に投入した総費用

別 表(四)

定時最大

1時間降雨量

単位:ミリメートル

定時最大

3時間降

雨量単位:ミリメートル

横浜

38.0

75.5

大山

28.0

72.0

元箱根

29.0

80.5

塔ケ岳

32.0

57.0

玉川学園

32.0

49.0

横須賀宝金山

48.0

111.0

横須賀観測所

59.4

149.8

別 表(五)

主要地点

宮原橋

五郎橋

梅田橋

夫婦橋

洪水処理機能の限界に

対応する流量

(毎秒・立方メートル)

四五

六五

六八

一四三

別 表(六)

主要地点

宮原橋

五郎橋

梅田橋

夫婦橋

最大流出量

(毎秒・立方メートル)

九八

一一一

一九五

二三六

洪水処理機能の限界に

対応する流量

(毎秒・立メートル)

四五

六五

六八

一四三

別 表(七)

日雨量

最大時間降雨量

(同年月日における雨量)

(ミリメートル)

順位

観測年月日

(昭和年月日)

降雨量

(ミリメートル)

1

33.9.26

287.2

39.1

2

41.6.28

256.0

22.8

3

36.6.28

213.4

58.2

4

45.7.1

206.0

53.0

5

19.10.7

194.5

32.9

6

56.10.22

194.0

38.5

7

20.10.5

192.2

欠測

8

46.8.31

178.5

39.5

9

24.9.2

174.3

28.4

10

17.9.19

164.4

41.3

別 表(八)

最大時間降雨量

日雨量

(同年月日における雨量)

(ミリメートル)

順位

観測年月日

(昭和年月日)

降雨量

(ミリメートル)

1

21.11.27

63.2

105.1

2

36.6.28

58.2

213.4

3

39.9.1

54.4

54.4

4

45.7.1

53.0

206.0

5

30.8.26

52.3

111.4

6

56.9.25

50.0

63.5

7

40.9.17

49.6

134.5

8

40.6.27

49.5

103.6

9

55.9.10

47.5

93.0

10

31.10.30

47.5

100.6

別 表(九)

原告ら住民の床上高一覧表

地区名

原告名

原告

番号

敷地高

T.P

(メートル)

床高

(メートル)

C=A+B

床上高T.P

(メートル)

明石芳蔵

(一)9

1.67

0.5

2.17

榎本倭子の被承継人

榎本鉄五郎

(一)14

1.87

0.5

2.37

岩村文雄

(一)1

2.48

0.5

2.98

砂山タツヨ

(一)11

1.39

0.3

1.69

北村藤兵衛

(一)5

2.36

0.4

2.76

石渡友吉

(一)15

1.95

0.75

2.7

藤田武

(一)17

1.83

0.5

2.33

北村直由

(一)7

1.42

0.5

1.92

鈴木六蔵

(一)40

2.06

0.5

2.56

古谷正利

(一)51

1.86

0.5

2.36

石橋信喜

(一)41

1.91

0.5

2.41

仁科力

(一)43

2.01

0.5

2.51

高山数則

(一)44

1.89

0.5

2.39

久保田徳市

(二)6

2.22

0.5

2.72

大和田義雄

(一)42

1.49

0.5

1.99

小川亀吉

(一)56

1.67

0.5

2.17

相澤光男の被承継人

相澤タツ

(一)55

1.79

0.5

2.29

中内賀久

(一)74

2.5

0.5

3

金井茂人

(二)20

2.49

0.5

2.99

別 表(一〇)

内水により床上浸水の生じたと考えられる原告

原告番号

原告名

敷地高T.P

(メートル)

床高

(メートル)

C=A+B

床上高

T.P

(メートル)

(一)7

北村直由

1.42

0.5

1.92

(一)9

明石芳蔵

1.67

0.5

2.17

(一)11

砂山タツヨ

1.39

0.3

1.69

(一)14

榎本倭子の被承継人

榎本鉄五郎

1.87

0.5

2.37

(一)17

藤田武

1.83

0.5

2.33

(一)41

石橋信喜

1.91

0.5

2.41

(一)42

大和田義雄

1.49

0.5

1.99

(一)44

高山数則

1.89

0.5

2.39

(一)51

古谷正利

1.86

0.5

2.36

(一)55

相澤光男の被承継人

相澤タツ

1.79

0.5

2.29

(一)56

小川亀吉

1.67

0.5

2.17

別 表(一一)

原告番号

原告名

敷地高

(T.Pメートル)

床高

(メートル)

(被害一覧表)

床上浸水高

(メートル)

①+②+③

浸水位

(T.Pメートル)

(一)

1

岩村文雄

二・四八

〇・五〇

〇・三〇

三・二八

(一)

5

北村藤兵衛

二・三六

〇・四〇

〇・二〇

二・九六

(一)

11

砂山タツヨ

一・三九

〇・三〇

一・二〇

二・八九

(一)

15

石渡友吉

一・九五

〇・七五

〇・九〇

三・六〇

別 表(一二)

原告番号

原告名

敷地高

(T.Pメートル)

床高

(メートル)

(被害一覧表)

床上浸水高

(メートル)

①+②+③

浸水位

(T.Pメートル)

(一)

1

岩村文雄

二・四八

〇・五〇

〇・三〇

三・二八

(一)

5

北村藤兵衛

二・三六

〇・四〇

〇・二〇

二・九六

(二)

6

久保田徳市

二・二二

〇・五〇

〇・五〇

三・二二

(一)

7

北村直由

一・四二

〇・五〇

一・七〇

三・六二

(一)

9

明石芳蔵

一・六七

〇・五〇

一・〇〇

三・一七

(一)

11

砂山タツヨ

一・三九

〇・三〇

一・二〇

二・八九

(一)

14

榎本倭子の

被承継人

榎本鉄五郎

一・八七

〇・五〇

一・三〇

三・六七

(一)

15

石渡友吉

一・九五

〇・七五

〇・九〇

三・六〇

(一)

17

藤田武

一・八三

〇・五〇

一・〇〇

三・三三

(二)

20

金井茂人

二・四九

〇・五〇

〇・七〇

三・六九

(一)

40

鈴木六蔵

二・〇六

〇・五〇

一・〇〇

三・五六

(一)

41

石橋信喜

一・九一

〇・五〇

〇・九〇

三・三一

(一)

42

大和田義雄

一・四九

〇・五〇

一・五〇

三・四九

(一)

43

仁科力

二・〇一

〇・五〇

〇・八六

三・三七

(一)

44

高山数則

一・八九

〇・五〇

〇・八〇

三・一九

(一)

51

古谷正利

一・八六

〇・五〇

一・〇五

三・四一

(一)

55

相澤光男の

被承継人

相澤タツ

一・七九

〇・五〇

一・〇〇

三・二九

(一)

56

小川亀吉

一・六七

〇・五〇

一・〇〇

三・一七

(一)

74

中内賀久

二・五〇

〇・五〇

〇・七〇

三・七〇

別 表(一三)

排水区

面積・ヘクタール

( )内は計画区域面積

区域

下町

第一地区

若松

八七・八九

(九三・八〇)

本町、大滝町、小川町、米ヶ浜通り、安浦町、

日の出町の全部、若松町、緑ヶ丘、三春町、

汐入町、深田台、上町、田戸台、

富士見町の一部

三春

六一・八八

(六三・二一)

下町

第二地区

堀の内

七〇・〇一

(七四・七五)

馬堀町の全部及び三春町、

大津町、根岸町の一部

大津

六三・一四

(七七・九八)

馬堀

九七・六九

(一三八・五九)

根岸地区

根岸第一

四一・四一

(五三・四一)

根岸町、三春町、大津町の一部

根岸第二

三六・二五

(四八・七六)

逸見・

汐入地区

逸見

一五・一六

(一六・〇六)

東逸見町、西逸見町、汐入町の一部

汐入

三七・三五

(四八・六八)

上町地区

上町

二二・九二

(二五・一二)

上町、不入斗町、佐野町、富士見町、

衣笠栄町、公郷町、田戸台、坂本町、

根岸町、三春町の一部

不入斗

八九・一〇

(一〇九・一二)

佐野第一

八四・四五

(一〇二・九九)

佐野第二

一四・三一

(一九・八九)

富士見

三三・八一

(五三・七〇)

公郷第一

三一・四七

(四二・四八)

公郷第二

三〇・九〇

(六一・一〇)

衣笠

四四・三八

(五一・九四)

八六三・一二

(一〇八一・五三)

別 表(一四)

排水区

面積・ヘクタール

( )内は計画区域面積

区域

田浦地区

船越

八三・三八

)(二八二・五八)

船越町の大部分、浦郷町、

追浜東町、田浦港町、田浦町、

田浦大作町、田浦泉町の一部

田浦

八二・九六

吉倉地区

吾妻

三二・五一

)(一五五・九〇)

田浦港町、田浦町、長浦町、

吉倉町の大部分、西逸見町の一部

長浦

五二・九七

吉倉

三二・五一)

逸見・

汐入地区

逸見

二四・五〇

)(二六六・五八)

汐入町、坂本町、

東逸見町の大部分、緑ヶ丘の一部

汐入

六一・五〇

坂本

二四・五〇

下町

第一地区

若松

八五・七八

)(二〇六・六九)

本町、大滝町、若松町、小川町、

日の出町、米ヶ浜通り、安浦町の全部、

緑ヶ丘、汐入町、稲岡町、楠ヶ浦町、

三春町、上町、深田台、

田戸台、富士見町の一部

三春

六六・九二

新港

二九・九七

下町

第二地区

堀の内

七三・〇六

)(三五六・九二)

馬堀海岸の全部、三春町、

大津町、馬堀町、走水、浦賀町の一部

大津

六三・一七

馬堀

一八二・〇五

根岸地区

根岸第一

四二・八三

)(一一九・五二)

根岸町、大津町、三春町、

池田町の一部

根岸第二

五五・七六

森崎地区

森崎

七六・九六

)(四二五・八四)

小矢部町、森崎町、

岩戸の全部と衣笠町、大矢部町、

森崎内川新田、武の一部

大矢部

三〇・一三

岩戸

五・二三

久里浜

第一地区

舟倉

七二・九六

)(三七四・二四)

舟倉町全部、池田町、長瀬、久比里、

馬堀町、吉井、浦賀町の一部

池田

八八・九〇

久里浜

第二地区

久里浜第一

八六・五六

)(三八五・三二)

久里浜、内川新田、神明町、

佐原、久村、野比の一部

久里浜第二

一七三・四五

浦賀地区

浦賀

二二六・八七

)(五八二・八五)

二葉、鴨居、東浦賀、西浦賀、

浦賀町、走水、吉井、久比里、長瀬

鴨居

八五・三四

追浜地区

鷹取

三五・二三

)(四五六・四八)

鷹取町、追浜本町、追浜町、

追浜南町、追浜東町、浦郷町、

夏島町、船越町

追浜

一〇七・三八

浦郷

八〇・九六

深浦

九〇・一〇

夏島

三八・〇〇

上町地区

上町

二三・九二

)(四七三・九七)

佐野町、不入斗町、衣笠栄町、

公郷町、鶴ヶ丘、汐見台、富士見町、

汐入町、坂本町、三春町、根岸町、

深田台、田戸台の一部

不入斗

九四・七三

富士見

三六・〇六

佐野第一

八七・五〇

佐野第二

一四・三一

公郷第一

四〇・一五

公郷第二

四一・八九

衣笠

四八・六七

平作地区

池上第一

五五・五七

)(三五二・六七)

金谷、池上、平作、阿部倉、小矢部、

坂本町、森崎の一部

池上第二

六〇・三〇

小矢部

六〇・八〇

二八四四・一〇(四四四三・五六)

別 表(一五)

単位:千円

下水道建設費

一般会計

一般・特別会計合計

A/B

(パーセント)

40年度

332,490

5,641,192

8,288,527

5.9

41年度

443,241

5,857,825

8,843,891

7.5

42年度

793,198

7,092,933

11,101,450

11.1

43年度

1,133,211

8,165,964

14,425,292

13.8

44年度

1,571,165

10,377,155

18,187,440

15.1

45年度

2,063,357

12,448,285

21,691,275

16.5

46年度

2,283,225

14,444,539

22,536,101

15.8

47年度

3,144,371

17,869,852

27,742,753

17.6

48年度

2,681,451

23,254,914

35,439,561

11.5

49年度

2,894,531

30,187,968

43,667,218

9.6

50年度

3,620,488

31,840,732

48,670,122

11.3

別 表(一六)

(日降水量)

順位

観測年月日

(昭和年月日)

降水量

(ミリメートル)

1

三三・九・二六

二八七・二

2

四一・六・二八

二五六・〇

3

三六・六・二八

二一三・四

4

四五・七・一

二〇六・〇

5

一九・一〇・七

一九四・五

6

五六・一〇・二二

一九四・〇

7

二〇・一〇・五

一九二・二

8

四六・八・三一

一七八・五

9

二四・九・二

一七四・三

10

一七・九・一九

一六四・四

別 表(一七)

(日最大一時間降水量)

順位

観測年月日

(昭和年月日)

降水量

(ミリメートル)

1

二一・一一・二七

六三・二

2

三六・六・二八

五八・二

3

三九・九・一

五四・四

4

四五・七・一

五三・〇

5

三〇・八・二六

五二・三

6

五六・九・二五

五〇・〇

7

四〇・九・一七

四九・六

8

四〇・六・二七

四九・五

9

五五・九・一〇

四七・五

10

三一・一〇・三〇

四七・五

別 表(一八)

(最大三時間降雨量)

順位

観測年月日

(昭和年月日)

降雨量

(ミリメートル)

1

三六・六・二八

一一六・七

2

四五・七・一

一一六・五

3

四〇・九・一七

一一三・一

4

一七・九・一九

一〇三・三

5

四〇・六・二七

九六・九

6

二一・一一・二七

八九・八

7

二七・六・二三・二四

八六・九

8

三三・九・二六

八五・六

9

四六・八・三一

八五・五

10

四八・一一・一〇

八四・〇

11

四八・六・二一

七七・〇

12

四三・七・六

七七・〇

13

四九・七・八

七六・五

別 表(一九)

年超過

確率(年)

時間雨量

(ミリメートル)

逆算日雨量

(ミリメートル)

計画高水流量

(立方メートル/秒)

河口に

おけるもの

河口から二・三キロ

メートル上流地点

五〇・七

二五六

二五五

二二〇

一〇

五三・七

二七一

二七〇

二四〇

二〇

五六・七

二八六

三〇

五八・二

二九四

二九〇

二五〇

四〇

五九・〇

二九八

五〇

五九・七

三〇二

三〇〇

二七〇

七〇

六一・二

三〇九

三一〇

二七五

一〇〇

六二・七

三一七

三二〇

二八〇

別 表(二〇)

基本高水

(立方メートル

/秒)

将来計画における

計画高水流量

(立方メートル/秒)

(ただし、河口から

六五五〇メートル

地点に計画した分水路が

あるものとして計算)

実施計画における

計画高水流量

(立方メートル/秒)

河口から

六六〇〇メートル

地点より上流

一三〇

一三〇

五〇

(ただし、

計画分水路がない

場合は八〇)

河口から

六六〇〇メートル

地点

一八〇

一八〇

五〇

(ただし、

計画分水路がない

場合は一二〇)

河口から

六五五〇ないし

五九〇〇メートル

地点

二〇〇

五〇

(ただし、

計画分水路に一八〇)

五〇

(ただし、

計画分水路がない

場合は一二〇)

河口から

五九〇〇ないし

四五五〇メートル

地点

三三〇

一九〇

一九〇

河口から

四五五〇ないし

三三〇〇メートル

地点

三五〇

二三〇

二一〇

河口から

三三〇〇ないし

二四〇〇メートル

地点

四六〇

三五〇

二八〇

河口から

二四〇〇メートル

地点

五二〇

四二〇

三一〇

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例